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時間縁起


縁起という言葉があります、


これは、
「縁起がいいね!」などの出来事に対する吉兆を表す表現でもありますが、



原因と結果を繋ぐ言葉でもあります。



この縁起とは因縁果報または因縁生起の略称とも言われていて、



仏教では「縁起の理法」と言い、私たちの人生の全て、もう少し視点を広げると、この世界の全てがこの縁起によって成り立っていると伝える「法」であります。



今回はこの縁起にある時間について私的視点ではありますが、お伝えさせていただきます。



原因と結果

みなさんにとっての人間としての時間は…有限ですよね、


地球でこの事実は変えることができません。



ということは全ての出来事には必ず時間が関係していきます。



これをもう少し言い換えると
全ての出来事は、選択できる時間があって生まれると言うことです、


そしてそれが源となります、直接的な原因です。


原因があると言うことは何でも結果があることに繋がります。

なので私たちの携わる時間には必ず原因と結果があるということです。



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な〜んだそんなことか知ってるよ!と言う方もいるかもしれませんが、この事実が
「真理の核」になってきます。


原因と結果の間には必ず「縁」があります、縁という言葉をみなさんも使ったりしますよね。


この「縁」とは何かと言うと、
原因を直接とした時に、縁と呼ばれる繋がりが間接的な条件となり、相互に絡み合うことで結果に結びつきそれに合わせた報いとなる…と私は思ってますが、


こう伝えると分かりにくいですよね。


ここで例えを使って表してみます、
「海に行って砂浜を歩いてると素敵な人と出会い恋に落ちた」


かなり雑でセンスを感じられない文ですが、シンプルにお伝えしたいのでこれで我慢して下さい(笑)



この素敵な人と出会った直接的な原因は何をしたのかというと「海に行った」ことですよね、ここがないと出会えません、そして次の「砂浜を歩いてる」は海に行ったという直接的な原因から見ると間接的な条件の選択です、これが「縁」になります、何故かというと、もしここで歩くではなく、泳ぐ条件を選択した場合は出会わないかもしれないからです。


なのでみなさんもよく使う「縁」があって出会うという表現になります。


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因縁果報

縁とは何かが見えてきたところで
次は「因縁果報」で全体的な流れを見ていきます。


これは
原因→縁→結果→報い
という流れになります。



ここで注目してほしいのは、
「縁という条件」によって
結果が左右され、結果には必ず「報いの成り立ち」があるということです。



今度は「花の種」を使って、
この因縁果報を例えてみると…

①花の種を蒔く…因(原因)

②光、水、栄養がある…縁(条件)

③花が咲く…果(結果)

④育った花を観察し心が喜ぶ…報(報い)

となります、


これを見ると因縁果報が難しいと思ってた人もこ〜んな流れなんだなぁということに気付いてもらえると思います。



しかし全てがこうなるとは限りません、
では次の場合は、

①花の種を蒔く…(原因)

②光、栄養がある…(縁)

今回は条件に水が絡みません、

すると③結果と④報いは 
はどうなるでしょうか?


③結果は花が咲きませんし、④報いとして花がないので心が喜ぶことはなく、もしかしたら残念な気持ちという報いになるかもしれません。


これが原因と縁が絡み合う条件によって結果が変わるということだと私は思ってます。



もし原因が「芽が出ない成り立ち」になると、結果も自然と「芽が出ない成り立ち」になります。



つまり私たちの時間は常にこの縁起の流れの中にいて絡み合う条件と関わり続けてると言うことです、

すると偶然に見える出会いや出来事も、結果に繋がる縁であり、全ては必然であることも理解してきます。



なので出来事を深く知るには原因と結果の条件となる「縁」の絡み合いに気づくことと、縁を繋いだ結果に対しての「報い」が発生してることへの気づきを認識することが智慧となり導きになります。




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報いとカルマ

せっかくなのでもう少し深く視点を掘って「報い」の視点を見てみます、すると報いは「カルマ」に関わることにも気づいてきます。

例えばこんなことがあったとします…

因=喉を潤すために飲み物が欲しい。

縁=お店でお金を払わず盗む条件を選択する。

果=バレないで飲み物を手に入れ喉を潤す。

報い=盗みを働き喉を潤した。


因縁果報で例えるとしたらこんな感じになります。


この場合盗んだことが見つかってないので「日常世界」としての変化はないですが、



「心の世界」での動きとしては「盗んで喉を潤す」という報いが生じてます、



私たちの行動したことは現実的に反映はされます、しかし今回の「見つからない」場合は現象として変化はないように見えますが、



この行動は「報い」として私たちの心の世界にも反映し記録され善し悪しの判断がされてるということです。



これがよく聞く「神様は常に見ている」の解釈になります。



そしてこの「報い」がカルマの芽となることがあります、それを命ある間に、気づき、改め、反省をし芽を刈り取ることでカルマではなくなりますが、そうでない場合は魂の傾向性(カルマ)として次回に持ち越しになります。


映画やドラマやマンガ小説などの書き物で過去に戻り「結果から繋がる報い」を解消し現在や未来を変えるという作品が多くありますが、



縁起の視点からみれば、私達は生まれ変わりながら、時間軸としては未来に進み、前回に望む結果ではなかったことを、毎回縁という条件を多角的に変えて「報い」の刈り取りチャレンジをしてるということが起きてます。


つまりこれらの作品のように過去に戻るのではなく、未来に進みながらカルマとして縁で繋がれた心の問題集と向き合い実践してるということです。


これについてはブログ「カルマ」に初歩的なことを書いてありますので興味ある方は確認していただければと思います。




今回をまとめるとするならば、
時間縁起とは、私たちに起きてる現象と実在する出来事が何なのかを教えてくれる「智慧」であります。



時間縁起を少しずつ理解していくと、心としての因縁果報は過去、現在、未来の時間軸が1つであることに気づいていきます。




今回は時間縁起について私の視点ですがお伝えさせていただきました、


読んでいただきありがとうございます。

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