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その名はカフカ Disonance 15

その名はカフカ Disonance 14


2014年9月プラハ

 ヤンのこの日のシフトは日勤で、朝七時に出勤すると、まず最初に受付で入場者の名前と署名が書き込まれた名簿のコピーを受け取り、休憩所の中の自分の持ち場へ向かった。この射撃場では出入口にある受付で来場者の予約と銃器所持免許の確認をし、署名を求めるが、延長などを希望する場合は休憩所で待機している射撃場全体の管理担当者が対応することになっており、担当者は一日に数回、受付から入場者の名簿のコピーを受け取ることになっていた。
 いろいろなものをパソコンで管理しているのに、どうしてこうアナログな作業が残るのか、効率が悪いな、と思いながら休憩所に入り、自身の詰所に目をやって、意外な顔を見つけた。
 ヤンはほとんど走るように近づいていき、
「おいおいおい、どうしたんだ、久しぶりじゃないか、ジャントフスキー」
と顔をほころばせた。
 アダムは無表情のまま
「そんなに歓迎してもらえるとは思ってもみなかったな」
と返したが、感情を滅多に表に出さないアダムに慣れているヤンは気に掛ける様子もなく、アダムに休憩所の椅子を勧め、自身も腰を下ろした。休憩所には、他には誰もいなかった。
 警察官としては一年後輩のアダムとは、ヤンが同じ職場で働いたのは三年足らずだったが、その後アダムが国外で働き始めてからも、アダムが休暇で帰国するたびに会っていた。疎遠になり始めたのは九十年代後半で、ハーグでの検察官の仕事を辞めたとは聞いていたが、帰国した様子もなかった。アダムが再びヤンに連絡を取り始めたのは2000年代に入ってからだったが、五年ほど前からヤンが務めるこの職場にアダムが顔を出すのは、この日が初めてだ。
「何か飲むか?と言っても、ここではその自販機で全部済ませてしまうんだがな」
と言いながらヤンが休憩所の壁に並ぶ自動販売機を指し示すと、アダムは
「こういうコーヒーではないものをコーヒーであると言って平然としている商品には手を出さないことにしている」
と不愛想に言った。ヤンは
「相変わらずだなあ」
と言って笑い、続けて
「どうした、久しぶりに撃ってみたくなったとか、か?」
と聞いた。アダムは
「いや、今日はそのために来たんじゃない。うちではすごい腕のいい奴を雇ってるんだ。おかげで俺はほとんど飛び道具は使わなくてもよくなった」
と返した。
 ヤンは未だに、アダムが現在どのような仕事をしているのか知らなかった。警察の人間が「民間に下りる」というのはよくある話だ。そしてその下りた先はマフィアのボディガードだとか、いわゆる堅気の職業とは言い難いものが多い。アダムの場合は国外でそれなりに名誉ある職に就いていた、という事実もあり、ヤンはいつまで経ってもアダムに現状を尋ねる勇気が出せないでいた。
 アダムはおもむろに
「体のほうは、どうだ?」
とヤンに聞いた。ヤンは笑顔のまま
「もう普通に生活できるくらいには回復しているんだ。楽な仕事ばかりしているから、別の意味で健康管理が必要だな」
と答えた。
 アダムは「そうか」と言ったなり、暫く黙っていたが、ヤンの目を見て再び口を開いた。
「ちょいと聞いてもいいか?」
「なんだ、何かやっかい事でもあるのか?」
「お前、ここの常連で、ブロンドの短髪で丸眼鏡かけてる痩せ型の、一見すると十八歳越えてるのか怪しい外見の男を覚えてないか?」
「ああ、あの清々しく挨拶する青年だな。その男がどうかしたのか。まさか、何かの事件で指名手配されてるだとか、そういう話じゃないよな?」
 アダムはヤンの言葉に眉を上げると
「おかしなことを言うな、あれのどこが犯罪者面してるって言うんだ」
と少し怒ったような声で言った。
 ヤンはアダムの反応に少なからず驚いたが
「そんなのは顔を見ただけじゃ分からんじゃないか。いや、軽率なことを言って悪かった。つまり、お前はあの青年に関して何か心配なことがあって、今日ここに来たんだな?」
と言って、アダムの表情を観察した。
 アダムは再び元来の無表情に戻って、話し始めた。
「あれがさっき言った、うちで雇ってる腕の立つ奴なんだ。本人には、今日ここに俺が来ることは言ってない。だからお前も今日、俺の訪問は受けなかったし、あれが俺のところで働いていることも知らない。そういうことに、しておけるか?」
「お前がそう望むなら、もちろんだ」
「あいつ、最近も練習に来てるか?」
「ああ、不定期だが。ま、それは前からだな」
「一人で、か?」
 ヤンは一瞬きょとんとして、それから笑い出した。
「お前の職場は、従業員のそんなところまで調べておかないといけないのか?ここで姉ちゃん一人引っかけたからって、仕事には支障ないんじゃないのか。それとも、あるのか?」
「ここでの入場者の確認はどうなっている?」
「受付の管轄だから、はっきりとは言ってやれないが、確か受付で免許かそれに代わる証明書の提示じゃないかな。身分証明書の確認があるかどうかは分からん。もちろん他の射撃場と同じように、免許保持者が免許のない人間を伴って入ることも許可されている。だが、お前のところの従業員と仲良くしてる姉ちゃんは自分で持ってるよ。一人でも来てるからな」
 アダムは少し考えるような顔をしたが、
「そうか。聞きたいのは、それだけだ。邪魔したな」
と言って、立ち上がった。
「なんだ、もっとゆっくりしていけばいいじゃないか。とは言え、俺も仕事だな。近いうちに連絡しろよ、また日を改めて会おう」
「ああ。体に気を付けろよ」
 アダムはそう短く返すと、休憩所から出て行ったが、ヤンはアダムが曲がった方向が受付のある射撃場の出入口とは逆方向だと気が付き、注意をしてやろうと思って急いでアダムを追ったが、廊下には既にアダムはいなかった。
 ヤンはふと、先ほどから握りしめている受付で受け取った入場者名簿に目を落とした。そこには、アダムの名はなかった。そこで初めてヤンは「受付を通っていたなら、受付の入場者確認のやり方なんて、わざわざ俺に聞くわけないよな」と思い至り、苦笑した。

 ベッドの隣の窓に掛かっている淡い青色のカーテンがうっすら光を通し始め、アガータは目を瞑り続けていられなくなった。寝返りを打ってナイトテーブルの上の時計を見ると、午前七時を少し過ぎたところだった。
 明け方まで眠りに落ちることができず、二時間ほどの浅い睡眠をとっただけのようだった。エミルがいないと途端に寝つきが悪くなるな、と横になったままぼんやり考えた。エミルに出会う前までは、これが普通だったのに、今はこのエミルがいる時といない時の差がすごく気になる。でも、さすがに昨日は「今日も会いたい」って、言えなかったよなあ、あんなに忙しそうなんだもんなあ、と考えながら、アガータは再び窓のほうへ寝返りを打った。
 アガータは、今は働いていない。プラハに移り住んだのは今年の初めだったが、その前の数年で働いた分で一、二年は何もしなくても贅沢な暮らしができるくらいの貯金ができた。それなら、どこか今まで住んだことのない街で、好きなことだけをして暫く過ごそうと思い立ち、住める場所を考えた。大都市も田舎も嫌だ、大きすぎないけれど、自分が周りの人間の中に埋もれてしまう程度には発展している街がいい、そう思って、プラハを選んだ。
 プラハに来てからは、アガータは本当に好きなことだけをして過ごしていた。一人でも満ち足りた幸せな生活をしていたのに、それに拍車を掛けるように、エミルに出会った。
 それでも仕事の依頼が一件来ていて、それが悩みの種だとも言えるが、アガータは常に自分がしたいと思うことを優先する毎日を心がけていた。
 アガータは横になったまま、一度大きく伸びをしてから
「とりあえず、走りに行こうかな」
と声に出して言ってみた。そして、勢いよく起き上がった。

 鍵をそっと開けて玄関に体を滑り込ませ、壁にかかる柱時計に目をやると、八時半だった。ジョフィエはもう学校に行っただろう、そう思った瞬間、まるで自分は妹を避けているみたいだ、とエミルは顔をしかめた。
 実際、「避けていない」とは言えない、とも思う。ちょうどジョフィエがレンカに会いに行った日の晩から昨日まで、夜を過ごすのは事務所かアガータのところで、エミルは家に一度も顔を出していなかった。電話さえもかけていない。ジョフィだって、レニに会いに行ったことを僕が怒ってないなんて思ってないんだろう、その証拠にジョフィからも電話がない。そんなことを考えながら、応接間のドアを開けた。祖母が小さな音でラジオを聞きながら、肘掛椅子に座って編み物をしていた。
 祖母は視線を手元に落としたまま
「お帰り、エミル」
と言った。エミルは祖母に近づき、彼女に顔が見えるように跪いて
「ただいま、ばあちゃん」
と返事をした。
 両親が突然姿を消して、待てども待てども帰って来ない。幼い妹と二人っきりで過ごすこの家は、あまりに大きかった。心配した祖母が泊まりに来て、一ヶ月が過ぎるころには、祖母は「二人が帰ってくるまでずっと一緒にいてやるよ」と言って本格的に引っ越してきた。当時はまだ祖母も仕事をしていたが、エミルもすぐに何らかの方法で稼ぎ始めなければならなかった。両親は死亡が確認されたわけではない。保険はおりなかった。
 あれから、もうすぐ十年が経つ。改めて見ると、ばあちゃんも年を取ったよなあ、とエミルは祖母の顔を眺めた。
「家のこと全部やらせちゃって、ごめんね」
「いいんだよ、お前は忙しいんだし。掃除も庭仕事も、全部ばあちゃんの趣味なんだ」
「僕が家にいないと、友達と温泉に行けないね」
「あれは行きたくて行ってるわけじゃない。断るとうるさいからね、婆さんどもは。たまには付き合ってやらないと」
 祖母の言葉にエミルが笑うと、祖母はやっと編み物をしている手元から目を上げた。
「ジョフィエと、喧嘩でもしたのかい?」
「どうしてそう思うの?」
「分かるんだよ、何となく。お前たちと一緒に生活して長いからね」
「ジョフィは、また派手な悪戯をしたんだ」
「お前らしくないね。あの子が悪戯すると、いつもは一目散に帰って来るじゃないか。今回は、なんだ、一週間くらいほっぽり出してるじゃないか」
 エミルは、どう答えていいのか分からなかった。今回は、自分のレンカに対する態度への後悔が大きすぎて、ジョフィエを止めなくては、叱らなくては、という気にさえなれなかった。
 祖母はエミルの返事を待たず、話し続けた。
「でも、いいんじゃないのかね。お前が過保護になると、ジョフィエも安心してしまうからね。どんなに悪さしてもエミルに相手にされないって分かれば、そのうち悪戯も馬鹿らしくなって、やめるかもしれない」
「そうかな。そうだと、いいね」
 エミルがそう答えたのと同時に、エミルのポケットの中で電話が鳴った。エミルは「ごめんね」と祖母に言って、応接間を出た。
 応接間のドアを閉めて、玄関で電話に出た。
「おはようございます、レニ」
「おはよう、エミル。やっぱりそろそろ移動してもらったほうがいいみたい。プラハに戻って合流するよりも、エミルにこっちに来てもらったほうが効率がいいと思う」
「分かりました。今ちょうど家なので、荷物まとめます」
「そんなに急ぐわけじゃないから、アダムに車貸してもらって。自分のには、乗って来ないほうがいいと思う。アダムに車は事務所の駐車場に置いといてって、頼んでおいたから」
「了解です。……ねえ、レニ」
「どうしたの?」
 エミルは一つ、大きな深呼吸をした。
「ごめんなさい」
「どうして、あなたが謝るの?」
「レニがプラハを離れる前の日、僕、すごくひどいことを言いました。たぶん、的外れなことを言うことで、いろいろ誤魔化そうと思ったんです……動揺してたから、自分でも確実なことは言えないけど」
 レンカは、すぐには返事をしなかった。数秒の間を置いて
「私、エミルにどうやって謝ろうかって、悩んでたのに。先越されちゃったわ」
と笑いながら言った。
「どうしてレニが僕に謝るんですか」
「口出しすべきじゃないところに口を出した気がしたから」
「そんなことは、ないと思います。ねえ、レニ」
「何?」
「僕は、この数日間、あなたの信用を失ったのではないかと、すごく不安でした」
「どうしてそんな発想するのよ。私があなたほど信用している人間なんて、この世界のどこを探してもいないわよ」
「アダムさんほどじゃ、ないでしょう?」
「アダムは、信用するとかしないとか、そういう次元の話じゃないの」
 エミルは「ああ、そうだった、変なことを聞いてしまった」と心の中で笑ってから
「何があっても、信じていてほしいんです。僕はあなたのために働くことに人生を捧げていて、絶対に裏切ることはないのだと」
と言った。
 レンカは、返答に困ったようだった。レンカが何も言わないので、エミルは
「続きは顔を見て話したほうがいいですね。とりあえず一刻も早く旅の準備をします」
と笑って言った。
 レンカも笑いながら
「会えるのを楽しみにしてるわ。じゃあね」
と言って、電話を終わらせた。
 エミルは「まずは車の中にたまった一週間分の洗濯物をばあちゃんに頼まなきゃ。事務所に洗濯機も買ってもらっちゃおうかな」と思いながら庭先に止めておいた車に向かった。洗濯物を車から運び出しながら「でも洗濯機を買ってもらったところで、職場に従業員の洗濯物が干されてるって、どうなんだろう」と自分の発想に苦笑した。


その名はカフカ Disonance 16へ続く


『Zvedni, zvedni mě prosím』 Skitseblok 20 x 25 cm、鉛筆、色鉛筆



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