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その名はカフカ Modulace 2

その名はカフカ Modulace 1


2014年10月ガラツィ郊外

 モルドヴァとの国境近くに位置するルーマニア東部の街ガラツィ郊外のうっそうとした森の中にある武器弾薬貯蔵庫の前の簡易な詰所でオレグが時間を確かめたのは午後八時半を回った頃だった。詰所の中は折り畳み椅子が二脚と一辺が一メートルもないくらいの真四角のテーブルが置いてあるだけだ。それでも他には何も入らないくらいの大きさの、小屋と言っても過言ではないような造りの詰所だが、安全がほぼ百パーセント保障されているこの貯蔵庫の前では飾りのようなもので、オレグは常々「ボスは俺たちに何か仕事をさせるために見張り番などという役目を作ったのではないか」と思っていた。この日のオレグの相方はオレグが所属する非合法武装集団の中では古株の同僚だったが、その同僚は詰所に座っている間は常に本を読んでいてあまり話したことはなかった。
 俺も読書なんていう高尚な趣味があればいいんだけどな、と思いながらオレグが詰所の窓から見える暗い森の中の小径に目をやると、数人の人影が詰所のほうへ近づいてくるのが見えた。全部で五人だ。一瞬身構えたが、同時に隣で同僚が
「ボスだ」
と言うのが聞こえた。
 ボスは一緒に連れている四人を外に待たせたまま詰所に上半身だけ突っ込んで
「ご苦労だな。この間運び込んだ新しいのあるだろ、あれの確認に来た。お前たちはいつも通りここで張っててくれ」
とオレグたちに伝えてから振り返り
「サシャ、こちらです」
と言って貯蔵庫のほうを指し示し、先に立って歩き出した。サシャと呼ばれた男は
「そのくらいは俺も覚えているぞ」
と笑いながら答え、後の三人と一緒にボスに続いた。
 オレグは一行の動きをぼんやりと目で追っていたが、一行の最後の一人が視界から消えると同時に同僚がオレグの脇腹を肘でつついた。
「何だよ」
とオレグが聞くと、同僚は興奮した様子で
「おい、あれ、あのサシャって、あれだろ、ティモフェイェフだろ」
と返した。
 オレグはもう一度ボスたちの消えた貯蔵庫の入口の方へ目をやった。
「あんたも、今まで会ったことないのか?」
「ない。自由に動けなくなってから長かったからな。最近やっと軟禁状態から解放されたとボスが騒いでた。今来てるの、絶対そうだ。ボスがあんな馬鹿丁寧な態度を取る相手なんて、それくらいしか考えられねえ」
 オレグは「伝説の男っていうのはやっぱり厳しい人なのかな、顔を合わせるのは勇気がいるよな、でも帰り際に握手とかできちゃったりするかもな」などと思いを巡らせながら、同僚が読書に戻った後も、暫く口を半開きにしたまま貯蔵庫の入口の方を見つめていた。

 貯蔵庫の入口は二重扉になっていて、最初の扉を開けると一メートルほどの間隔を空けて次の扉があった。管理を任せている部下が両方の扉の錠を開け、内部の電灯を付けたところで、サシャは
「暫く二人にしてもらえるか?すぐ呼ぶから、ここで待っていてくれ」
とその管理者の部下に告げ、自分のすぐ後ろを歩いていたティーナに
「入ろう」
と言って貯蔵庫に足を踏み入れた。
 サシャに続いてティーナが中に入り後ろ手に扉を閉めたのを確認すると、サシャは二人の左右に所狭しと並ぶ金属製のコンテナーを指し示し
「箱に入っているのが全部くだんの物品だ。ここは回転が速いから、新しいのが入ったらすぐに中を確認して整理して収納し直すのが常なんだが、今回は事情が事情だからな、まだ触らせていない。結構な量だが、お願いできるかな」
と言いながら小脇に抱えていた書類をバインダーごとティーナに手渡した。
「物の内容は、あの後エミル君が回してくれた売り手側の用意してたリストで確認したけど。ここにあるのが本当にあのリストの通りだったら、もの凄い商売をしようとしてたってことよね」
「今渡したのはそのリストと同じものだ。ただ、こちらでは確認していない。君が来るまで手を付けたくなかった」
「目を通した感じでいくと、他に回すより私が自分で使いたいくらいなんだけど」
「それは我らがリーダーが許してくれないだろう。足が付く、と言ってね」
 サシャの返事に、ティーナはふっと鼻で笑って、リストからサシャに視線を移した。
「貴公子君も後の二人も理解できないのよ、こういうの見せられて舌なめずりしちゃう気分っていうのが」
「俺も、どうだろうなあ、軍に属していたのは事実だが、何だかんだ言ってGRU時代が一番長い。スパイの使うべき武器は銃でも爆弾でもないからな。武装も許されない状況なんていうのも結構ある」
「それを言ったら、私だって国軍を退職してもうすぐ二十年になるわ。防衛大で教え始めてから一応復籍はしてるんだけど」
 サシャは笑いながらティーナの顔を見つめ、
「君は一生現役だ、肩書きが何になろうと。実際、君が戦っている姿は魅力的だ。それが良いことなのかどうかは別として」
と言った。ティーナは更に大きな笑みを浮かべて
「嬉しいこと言ってくれるのね」
と返した後、サシャから視線を逸らし
「アダムもあんなに使えるのにね。もったいないことしてるわ」
とつぶやくように言った。
「それは強制できないだろう。本人が嫌がるんだから」
「あの時だって、殺しちゃったわけじゃないのにね」
「あの男は繊細なんだ」
 ティーナはアダムを形容する言葉に「繊細」などという言葉が飛び出してきたことに笑い、もう一度サシャのほうを見て
「そろそろ呼ぶ?今日連れてきた子に手伝わせれば早いから。さっさと終わらせてご飯食べに行こう。サシャとデートなんて久しぶりだわ」
と言った。サシャは優しく微笑み返すと、扉を開いて外で待つ部下たちを呼んだ。

 ボスが同伴した四人と貯蔵庫へ向かってから小一時間ほどで、一行は再びオレグと同僚が座っている詰所の前に姿を現した。今度もボスだけが詰所に上半身を突っ込んで、二人に、と言うよりも主に同僚のほうに話しかけた。
「あの新しい箱入りのやつ、やっぱり暫くは動かせんらしい。次が入ると収納場所に困るだろうから、明日にでも常備品を整理しとこう」
と言うボスに、同僚はつまらなさそうに本を顔の前で扇をあおぐようにパタパタと動かし
「最近そういうのばっかっすね。こんなんじゃ体がなまっちゃう。実戦ないのかな、実戦」
と返した。
 ボスはふんと鼻を鳴らすと
「我がまま言うな、そういう態度の奴は何かあっても連れて行かんぞ」
とだけ言って待たせていた四人のほうへ戻って行った。
 オレグは一行が立ち去って行く微かな音を聞きながら我慢できなくなって席を立ち、外に飛び出した。夜の森の中は暗い。遠ざかっていく五人のシルエットが何とか分かる程度だったが、オレグはその五人の中の一人の背中をじっと見つめた。するとその人影が首だけオレグのほうへ回し、うっすらと笑った。暗がりでそんな細かい表情など分かるはずがないのに、オレグには確信があった。
 背後から同僚が小馬鹿にしたように
「何やってんだよ、相手はアイドルじゃないんだぞ」
と言葉を投げた。オレグがその場に立ち尽くしたまま
「俺のほうを向いたぞ。笑ったぞ」
と返すと、同僚は心底呆れた様子で
「当り前だ。そんな熱い視線を注がれて気が付かない方がおかしい」
と言うと、再び本に目を落とした。

 後ろを振り返って笑ったサシャを見て、ティーナが
「どうしたの?」
と聞いたが、サシャはそれには答えず、貯蔵庫管理者の部下のほうを向き、
「君が俺のことをあまりにも誇張して吹聴するものだから、変に英雄視してくるのが多くて困るな」
と笑いながら言った。部下は肩をすくめると
「俺だけじゃないですよ、サシャの素晴らしさを啓蒙してる人間。それに誇張してるつもりもないし。みんな、サシャの帰還を喜んでます。……いや、本当に良かった、帰って来てくれて」
と返し、照れ隠しをするかのように歩調を速めた。


その名はカフカ Modulace 3へ続く


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