ベートーベン ピアノソナタ第32番 その2

小学生の頃にベートーベンの32番を初めてコンサートで聴いたとき、恥ずかしながら何がなんだかさっぱりわからなくて、永遠に続くかのように長く感じていた。32番の後にもう1曲あったが、32番が終わると耐えきれずに席をたった。母はあと1曲なんだし、退場するのも目立つと言って反対したが、もうどうしても我慢が出来なかった記憶がある。幼かった自分にこの作品は到底理解出来なかったのだ。こんなに理解出来ない曲があることに驚き、ある意味で強烈な印象が残った。

大学生になった頃、少しずつこの曲が好きになってきた。ある公開レッスンでこの曲が扱われていた時、その時の教授が2楽章について『客観的なクライマックスを迎える』と表現していてとても腑に落ちた。『ベートーベンのトリルは宇宙的なもの』『たった1箇所人間的な声』という言葉も印象に残った。

譜読みをしていて、『時間感覚』と『客観性』というキーワードが浮かんできた。この曲は“長大な曲”という印象があったが、読んでみると意外とコンパクトだと思えてきた。この曲は長いのではなくて“時間”を超越するような感覚にさせるということらしい。コンセプトは壮大だが、見事に圧縮されている、また、空間把握能力であったり音楽の構成を掴む力は経験の積み重ねによって向上するようで、以前より曲全体を見渡せるようになってきた自分を実感することが出来た。
少し前までは演奏に思い入れがあることが大事だと思っていたが、前述した“客観的なクライマックス”という言葉があるように、この曲は最終的に限りなく客観的になっていく。ベートーベンの視点ですらないような、宇宙的な視点で描かれている。演奏する時に思い入れが必要ないわけではないが、エゴや主観を捨て去って澄み切ったチョイスをすることが求められるのだろう。こういった表現は自分にとって新しい領域なので、どんな感覚を得られるか楽しみである。

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