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指数的に拡大する格差社会を生きるにあたって

弱者男性vs弱者女性というフレーズを見て思ったことがあった。それは現代の自由市場経済において、なぜ格差が埋まらないのかということである。しかし、その事実は非常に奇妙なもので、直感に反するようなことが起きているのは間違いがない。

良さとは何なのか?

非常に思想家チックかつ哲学的な話から入ることになりそうだが、まずもって「良さ」とは何なのだろうか。ここ最近、様々なところで断罪が流行っているが、勧善懲悪を徹底する以前になにが「良い」のかという根幹については当然のように議論されていない。最も深いところにタッチする前に次の話題に移ってしまうかのように、常にそれは不確定的である。

その理由としては、個人と社会という言葉で一つに説明がつくのではないかと考えている。

良さ、という言葉には個人軸社会軸という二軸が存在する。それはいいのだが、不思議なのはこれらの軸が謎の矛盾を抱えていることである。個人的には「良い」と思っていても社会的には「良くない」場合がある。

それは激しい犯罪や狡猾な詐欺などではなく、テストで高得点を取るだとか、年収のいい企業に入るだとか、一見別に何の問題もないような「良さ」にも社会的に見れば「別に何が良いんだ?」みたいなことが言えてしまうことになる。これによって、ハンコ文化はなくならない上、謎の忖度文化が生まれたり、イノベーションのジレンマという矛盾が生じる。イノベーションのジレンマの場合、個人に当たる部分が企業であり、それと社会全体の利益追求動機が矛盾することで生まれる。

なぜ競争を疑うと不利になるのか?

自由市場は独裁市場とは異なり、個人の自由が尊重されているゲームといってもいい。個人は世界に一つしかない市場に参加するわけだが、自由であるということは「特性の濃度差」が生まれやすくなる。これはいわば多様性、もしくは社会的優位性ともいうべき濃淡とも言い換えられる。

競争というのは自然的に発生するもので、もしもこの市場に何の区分けもしなければ、濃度差は生まれない。熱力学第二法則のように、多様性優位性というのは何もしなければ、一方向的に発展する。競争を疑うというのは、いわばその加速度を変えることに過ぎないのだ。つまり、競争を疑っても競争に積極参加する人は加速度が増し、消極的な人はゼロに近い速度に減速するか、そのままの速度か、しか選択できない

これが、競争を疑うと不利になるわけである。簡単に言えば、自由市場に参加している以上、競争が拡大する方向へしか進めないということだ。自由市場ではない場合、それが単に抑制されているだけであり、その場合でも競争原理は微弱ながらに生じる。

競争によって生じる濃淡差は、たとえ非自由市場でも収束することはない。

優位性の差による努力の質

よく、大学受験の際に年収が低い家庭とそうではない家庭では、スタートラインから結末が決まっているという話が出る。それは上記の「個人軸」「社会軸」で考えることで説明がつく。個人的には努力しているにもかかわらず、同じ勉強時間ではるかにレベルの高い大学へ行く人がいる。

これは、もともと参加しているゲーム(自由市場)があり、現時点での差が反映されているだけ、ということがその理由である。つまり、自由市場が時間発展し続ける以上、「同じことをしているのに結果が違う」現象は消えることはない。

不思議なのが、上記のように優位性の差があり、明らかに社会軸で見れば両者にはハンデがあるため、より優位にある人は「余裕」を、より劣位にある人は「苦しみ」を感じるのかと思いきや、どちらも同量の「余裕」と「苦しみ」を享受しているということだ。

それは社会的に見れば強者は余裕を、弱者は業苦をというのが正しいのだが、個人軸ではその機構が正確には機能しない。理由としては、両者とも競争がある市場にいるからである。

絶望しても意味はない

このことからわかることは、絶望しても誰もが昨日より微小なりとも多様化し、何かしらの優位性を得るということだ。もしかしたらそれはとんでもなく気づきにくい幸運かも希望かもしれないが、留まることはない。

だからこそ、個人が感じる「余裕」と「苦しみ」はつきまとい続ける。それでも諦めずに努力し続けることで、自分なりの道は切り拓けるはずだ。社会的な成功を収める人もいれば、そうでない人もいる。しかし、個人的には誰しもが等しく困難と向き合い、等しく幸運に出会うのだ。

このことを理解することが大切だ。自由市場の中で生きる限り、競争と格差がある。しかしそのことをあきらめる必要はない。諦めずに自分のペースで努力し続けること。それがこの厳しい世界を生き抜く唯一の方法なのかもしれないからだ。


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