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からっぽのおなか -流産のはなし-

※医学的な専門知識を持たない一個人の体験を記したものです。
※2018年に流産し翌年にまとめた文章です。

午前3時30分。腹痛で目が覚めた。

寝惚けていたせいか、最初はそんなに強い痛みではなかった。とりあえずトイレに入り、いきんでみたりしているうちに痛みはどんどん悪化した。
「(何だこれ、めちゃくちゃ痛い。聞いてないぞ、こんな、こんなに痛いなんて、)」

流産がこんなに痛いなんて聞いてない。


妊娠9週の超音波検査で心拍も胎児の姿も確認出来ず、医師から流産の可能性を告げられた。「もっと後で確認できる人もいるけど…」という医師の口ぶりに、ああ、これはほぼ確実にダメなやつだな、と思った。
医院を出たあと、呆然として何も考えられず、自分でも訳が分からないまま当初の予定通りひとカラをするためカラオケボックスに入った。ノリノリで歌うはずだった大好きな歌の多くは、勝手に溢れてくる涙でほとんどまともに歌えなかった。
帰宅してもなお呆然としながら、"妊娠9週 心拍確認できない"というワードを検索した。妊娠10週で初めて心拍確認できた人のエピソードを見てほのかな期待を抱く反面、流産の可能性が限りなく高いことも受け入れざるを得なかった。

時間が経つにつれ、冷静に、前向きになっていった。妊娠初期の流産は、多くの場合遺伝子や染色体の異常が原因であり、受精の時点で流産が決まってしまっているため、どうしようもないことなのだと知った。1年以上の妊活を経て初めての妊娠だったため、妊娠できることが分かっただけでも良かったと思った。
それは無理をしている訳でも何でもなかったけれど、それでも夜ベッドに入ると、どうしようもなく悲しくなって泣いた。きっとまた妊娠できるし、私はいつか母になれる。でもこの妊娠が無事に出産に繋がって出会えるはずだった我が子とは、もう二度と会うことはできない。いまお腹の中にいる(かどうかもよく分からない)その存在は、この世に生まれることはないのだ。

診察から10日後の夜、出血が始まり、目が覚めるほどの腹痛に見舞われたのは、さらにその3日後、次の診察の前夜のことだった。

あまりの痛みに怯えながら、何とか逃げ出そうと便秘の時のようにいきんだが、腹痛が悪化するだけだった。
このままトイレにいても下半身を冷やすだけだ。そう思って、はぁはぁ言いながらトイレを出た。空腹で薬を飲むことに抵抗も感じたが、そんなことは言っていられない状況だった。胃が荒れるほうが100倍マシだ。そのくらい痛い。ふらふらになりながら、引き出しから生理痛の薬を出して飲んだ。

それから薬が効いてくるまでの間のあの痛みを、私は忘れない。
座椅子にうずくまり、座面を何度も何度も引っ掻いて痛みに耐えた。薬のせいか吐き気もした。何だよ、これ。こんなの聞いてない。流産ってこんな痛いの?生理痛とは比べ物にならない痛みだ。どうして、なんで。

その時、ふと気付いた。これは産みの苦しみだ、と。

流産だって、"産"の文字が入っている。これは、子を産む痛みなのだ。そう思ったら、少しだけ気持ちが変化した。逃げたくてしょうがなかったけれど、これは向き合わなければならない痛みなのだ。この痛みを引き受けるのが、母である私の役目なのだと、格好つける訳でもなく自然とそう思った。この痛みが次に繋がるんだ、とも。
(後からネットで調べたら、出産と流産の両方を経験したことがある方が、両者の痛みは似ていると書いていた。)

何分経ったのか分からないが、やがて眠気を感じるほど痛みが引いた。助かった。薬がちゃんと効いたのだ。体を起こし、寝室に戻って夫の眠るベッドに潜り込んだ。私がこんなに大変な目にあったにもかかわらず、何事もなかったようにすやすやと眠っている夫に対して怒りも悲しみも感じたけれど、何故だかそれよりも「起こさずに済んで良かった」という気持ちが強かった(そもそも起こさなかったのは私だし、起こしていたとしても彼にしてもらえることは無かったと思う)。しばらく夫の寝顔を眺めてから、ゆっくりと天井を見上げた。

会えなかったな。

そう思ったとき、数日ぶりに涙が出てきて、声を押し殺して泣いた。もう大丈夫だと思っていたのに、"産みの苦しみ"に誘発されたのか。
やっと涙が収まってもう一度夫のほうを見ると、ちょうど夫の携帯が鳴った。うう、と目を開けた彼は、私を見て心配そうに「大丈夫?」と言った。答える代わりに彼の頭を撫でると、彼はまた眠りについた。私はその後もなかなか眠れなかったが、もう泣くことはなかった。

目覚ましが鳴って目を覚ますと、昨夜のことが嘘のように腹痛も吐き気もなかった。いつも通り朝食を準備していると、出血する感覚があったので少し力を入れた。すると、予想外の大きな異物感が生じて、慌ててトイレに駆け込んだ。一度便座に座り、恐る恐る立ち上がって確認すると、便器には見たこともない物体が落ちていた。直径6センチ、厚み2cmくらいの、レバーのような質感の物体だった。うわ、と声に出しながら、こんなの自然に出てくるんだなぁと感心してしまった。

その数時間後に超音波検査を受け、組織はほとんど出ているので処置は必要ないと言われた。あの物体が診察の前に出てきていなかったら、もしかすると手術をすることになっていたかもしれない。最期に親孝行してくれたのかな、なんてセンチメンタルなことを考えた。
診察を終えて部屋を出るとき、いつもなら医師が「お大事に」と言ってくれるだけなのだが、その時は看護師がわざわざカーテンの向こうから顔を出して「お大事にしてくださいね」と言ってくれた。気遣ってくれたのだろうか。周りの人には言いにくいことなので、事情を知っている人の優しさは本当に染みた。

あんなに悲しかったはずなのに、医院を出た私は生まれ変わったように心も体も軽くて、久しぶりに本調子になった気がした。思えばこの1ヶ月、何をするにも体が重く、心はピリピリしていた。つわりの症状は軽いほうだったと思うが、それでも妊娠している間は心も体も普段とは全く違う状態だったのだと分かった。

帰宅しても泣かなかった。それどころか、歌を歌いながら掃除機をかけた。
綺麗になったリビングで座椅子に座り、無意識にお腹を優しく叩いた。妊娠してからはそんな風にして、聞こえるわけはないと思いつつ話しかけたりするのが癖になっていた。でも今はもう、ここには何もないし、誰もいない。

「またいつか、会いたいね」と言いながら、私は空っぽのお腹をゆっくりとさすった。



―あとがき―

辛いとき、何よりも夫の優しさとポジティブさに救われました。文中にあまり書けませんでしたが…。
無知な私は流産があんなに痛いとは知らず、心も体もかなりのショックを受けましたが、その痛みや悲しみを知れたことで、少しだけ強く、優しくなれた気がします。(ちなみに生理痛の薬の服用が医学的に正しかったのかは不明です。)
あれから一年が経った今も不妊治療中ですが、今後も前向きにふたりでやっていきたいと思います。
最後に、出会えなかった赤ちゃんへ。まだ会ったこともないのに、あなたのことが大好きでした。ずっと忘れないよ。いつかきっと、また会おうね。


後日談:水子供養のはなし

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