「素敵」の共有はできなくても大丈夫

素敵
 自分の感覚に合っていて心ひかれるさま。
      (小学館辞典編集部編「美しい日本語の辞典」150ページ)

人は「素敵」を共有したがる。
たとえば「素敵だなあ」と思う景色に出会ったら、写真を撮る。そしてそれを、自分以外の人に向けて、LINEで送ったりFacebookやTwitterに投稿する。そして、返事が来たり「いいね」されるのを待っている。
でも、誰にも反応してもらえない時もある。そういう時、寂しい。「素敵」を共有できないと、寂しい。「私が『素敵』と思ったもの、みんなはそんなに『素敵』だと思わないのかな…」と、寂しい。

私は「素敵」という言葉が好きだ。幼い頃は、何となくお上品で自分には似合わない言葉だと思っていた。というか、今もそう思っている。でも、だからこそ特別感のある言葉だと気付いた。大事な日に着るワンピースみたいな。「素敵」の文字の周りに、「素敵…」って言う人の周りに、星がきらきら飛んでいるような気がする。ファンシーなヤツじゃなくて、くすんだ金色のアンティークの置物みたいな星だ。(多分私自身がそういうのを「素敵」だと思っているからだと思う。)

「素敵」という言葉をさらに好きにさせてくれたのが、「美しい日本語の辞典」という本だった。この辞典は少し変わっていて、「後世に残したい日本語」「自然を友として―雨・風・雲・雪・空の名前」「擬音語・擬態語」の項目で構成されている。その「後世に残したい日本語」の一つに「素敵」があった。読んでみると、「自分の感覚に合っていて心ひかれるさま。」と書いてある。
「自分の感覚に合っていて」。そう、「素敵」とは、「自分の」感覚に合っていることなのだ。「素敵」であることに、大勢の他人は必要ない。自分が、自分自身が「素敵」だと思えば、それはもうちゃんと「素敵」なのだ。
励まされた気持ちになった。そして、なんて「素敵」な言葉なんだろう、と思った。

実はこの本は、当時の職場の同期の結婚式でもらった、引き出物のカタログで注文したものだった。他の同期に何を注文したか聞かれたので答えたら、「え…?何それ?そういうの好きなの?」と苦笑された。多分、彼はちょっと引いていた。そして私は、ちょっと傷付いた。
でも、本が届いて「素敵」の意味を読んだとき、私は思った。大切な仲間と「素敵」を共有できなかったけれど、だからって「素敵じゃない」ってことにはならないんだ。「素敵」だと思う自分を、「素敵じゃない」と思う他人を、責めなくてもいいんだ、と。

「素敵」は共有したいし、共有できなかったら寂しい。そのことは変わらないし、そのことに固執してしまうのが人間だと思う。だけど、アンティークの星の置物に必要なのは、大勢の賞賛ではなかった。たった一人の持ち主が口にする、「素敵だね」って言葉だったのだ。

そういうことを、ちょっと思っておくだけで、私はずいぶんほっとするのだ。


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