九九を言えないと入れない教室について

 題名からしてなんだよそれと思われそうですが、私が小学生だった10年前に実施されていたシステムです。具体的に言うも何も題名の通りで、九九の任意の段を完璧に言えないと教室に入れないと言う仕組みでした。
 今回はその仕組みが如何にクソかを話していきたいと思います。半ば八つ当たりの様な部分もあるかと思いますが、ご容赦ください。

 まずは一連の流れから説明致します。
  1.前ドアに居る担任にどの段で挑むかを伝える
  2.任意の段を完璧に言う
  3.先生が退き教室に入れる
 という流れです。まぁそのままですね。
 一見、九九を憶えさせるために有用そうな仕組みをしていますが、実際はそんなことはありません。下手すると逆効果です。

 「別に朝早く来れば強行突破できるんじゃね?」と言う意見があると思いますが、まず不可能です。なぜならば、昇降口が開く前から担任がドア前に張っているからです。職員用玄関から侵入すればこの問題はクリアできますが、まず小学生はそこまで頭が回りませんし、仮に回ったとしても怒られてお終いです。
 他にも学校を遅刻するなども考えられますが、それらも良くないことは明らかなので、正攻法で避けることは不可能です。

 以上ような事が毎日発生するわけですが、勿論しくじると列の最後尾に回され、言えるまで無限ループさせられます。もうこの時点で相当やばい気もします。しかし、クソシステムと言う所以はここではありません。

 さて、ここで当時の私の話でもしていきたいと思います。(隙自語)
 私は純粋に頭が悪い(=勉強ができない)少年でした。今も青年と言うこと以外は変わりありません。大体ここで予想は付くと思いますが、当たり前のように九九も言えませんでした。両親に手伝ってもらいながらも覚えようとしましたが、中々上手く行きません。練習方法が間違っていた可能性も考えられますが、練習方法の指針等は指南されておらず、足りない頭でやっと考えた方法でしてたのでそれも大いにあると思います。
 兎角、私は九九が言えませんでした。

 では、それを踏まえた上で当時の私がどう思ったかを述べて行きたいと思います。
 当たり前ですが、劣等感を持ちます。周りの児童は涼しい顔で関門を突破していくので、同時に焦りも覚えますし、当時は今以上に繊細だった為、自己肯定感も下がりました。
 その上、周りの視線も冷たくなります。先に教室に入れないと申し上げましたが、流石に朝の会(=朝学活/SHR)が始まる前には教室に入れてもらえます。しかし、教室の中には他の生徒が勢揃いしているからか、なんだこいつと言う視線を向けられます。普通にそれは苦痛でしたし、学習というものが嫌いになりつつありました。
 当時の國領少年 (7) この様な思いを懐きつつ生活していたわけです。

 大分回り道をしましたが、結論としては先程の当時自身が思ったことが総てです。まとめらしく換言しますと、「意欲を高め、持続性を持たす事には有用であるが、不得手な児童への見せしめ紛いの事が生じてしまう。」ということです。先程の事は私以外の身にも起こり得ることでしょう。若しかすると、私の思い上がりで周りは一切「なんだこいつ」と思っていない恐れはありますが、当の本人が苦痛に思ってしまったら結局は同じです。
 周りは教室に入り、朝学活前に遊んでいるのに私だけ独り廊下で九九を言わされ続ける事への疎外感だったり、廊下に出てくる他児童の視線だったりが怖くて堪らなかった事を明確に憶えています。
 現在はこのようなクソシステムが流通しているかはわかりませんが、なくなっていくことを望むばかりです。

あとがき的ななにか
 お気持ち表明です。ソレ以上のことはありません。
 実を言うと私自身記憶が特段苦手と言うわけでは無いと思うんですよね。無駄にバス停や交差点、駅名を覚えていますし、そういった能力が壊滅しているわけでは無いと信じたいです。しかし、いわゆる学校で使う知識に限って話すと全く記憶できません。それは訓練を重ねている今もそうです。もしかすると小学二年生時代の私のトラウマが作用しているのかもしれません。九九の事で当時はいじられましたし、快い気持ちはしませんでした。昔のことをうだうだ言ってもしょうがないのは大いに理解しているつもりですが、なかなかできないのですよね。自分の面倒な性格をどうにかしたい今日このごろと言う感じであとがき的ななにかを締めさせて戴きます。
 貴重なお時間をこの様な駄文に割いていただきありがとうございました。


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