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エセ科学は科学の敗北ではなく勝利である


0. 序章

これについて詳しく書く試みです。

Twitterとかをやってると、たびたびエセ科学をメチャメチャ馬鹿にする文章がまわってきたりします。これを書いてる現在(2021/12/20)付近で言うと「テスラ缶」とかありましたよね。
こういう明らかに科学的でないものを信用して、なおかつ「効果があった!」って言ってる人を見て「科学教育の敗北」なんて言い方をしたりします。ちゃんと学校で科学を学んでりゃこんなもん一発でインチキだとわかるだろ、ってな話ですね。

でもこれってむしろ科学教育が勝利した結果だと思うんですよ。何に?宗教に。


1.宗教

前提として、人は迷います。今日の晩飯から職業まで様々なことで迷います。何を選ぶべきか・何を為すべきか・どうあるべきか。その指針を自分一人で確立するのはとても難しいことです。ハードボイルドものの登場人物がかっこよく見えるのは彼・彼女らが自分の信念に則って行動し、それが現実には困難であるからでしょう。

その指針を獲得するのが困難なところにやってくるのが宗教です。人とはこうあるべきで、こういうときはこうするべきだ。という価値観を持った概念です。しかもそれは神とか仏みたいな人知を超えたデケー存在によって担保されているので充分信頼するに足ります。だってあいつらメチャメチャ強いし、逆らったら街とか爆破したりしてんだぜ。

この宗教ってのは異様にかしこい人が言い出しっぺな上に、そいつに負けず劣らずかしこい人たちをどんどん巻き込んで成長していってるのでいろんなことを考えるしいろんなことを知ってますが、その中で彼らは信じるもののない人がどうなるかについても知ることとなったはずです。というか、それこそが宗教が生きる指針や価値観を人々に与えるようになった理由であると言ってもいいかもしれません。

知識を得ることは度々「巨人の肩に乗る」と表現されますが、その分野に取り組んだ人が多ければ多いほど巨人は大きくなり、後学者はその肩に乗ることで1人では見渡すことのできなかった景色を見ることができます。人間が集団として大きくなるにつれて、科学はもちろん政治からメンタルヘルスまで、さまざまな分野のトライアンドエラーの情報が宗教に集まってきます。そこで見えてくるのは巨人の肩に乗らなかった人間の末路です。

例えば近しい者を亡くした人がいたとして、その人を慰めるにはどうしたらいいのか?宗教者は何千何万のトライアンドエラーの中から最適解を導き出して後世に残します(それが複雑にプロトコル化しすぎた結果「意味はわかんないけど効く」みたいになってるのがお葬式だと思うのですが、これはまた別の話)。この最適解を知らずに自分で一生懸命考えた場合、人によっちゃとんでもねぇ考えに至る可能性があります。遺族を慰めようと思って落ち込んでる人間の前に陽気なチンドン屋連れて来てブチ切れられる可能性はゼロではありません。「んなわけあるかいな」と思ったあなた。人間ってマジで突拍子もない最悪の手段取るもんですよ。ダーウィン賞とか見るとわかります。

人間の群れ、社会の中には一定数こういう「最悪の手段」をとるやつらがいて、ほっとくと自分で一生懸命考えて勝手に死んだり他人に迷惑をかけたりしちゃいます。巨人の肩から勝手に降りて石につまづいたりトゲ踏んだり、なんなら巨人にケガさせてきたりするわけですね。なおかつ知識がないと自分の行動が間違っていたのかもわからないので正しい知識にアクセスしようという気にもなりません。こういうのが隣人だとメチャメチャ困るのでどうにか共同体としてやつらを包摂してあげて「生きる指針」というかたちで規範と知識をインストールしてあげる。

恐らくは原初、「われわれは何処から来、何処へ行くのか」的な、世界に対する素朴な疑問を考えるためだった(=神話など)ものが、人間=知識を蓄えるにつれこういうフェイルセーフ的な役割を担う様になっていったのではないか、というところまでが宗教の話です。


2.科学の登場、勝利

で、宗教が人間をいい感じの方向に向けてたところに科学がやってきます。こいつらも宗教と同じく人間をいい感じの方向に向けようとする試みではあるんですが、その性質として万物を疑うというものがあります。これがよくなかった。何が良くないって今までメジャーだった価値観である宗教を疑ったりするのでこいつらとバチボコに対立したりします。しかもどちらも根本は「世界を説明しようとする試み」なので、天動説と地動説、聖書と進化論みたいな対決がいっぱいあったのちに宗教が科学にじわっと敗北します。これが冒頭で述べた科学の宗教に対する勝利です。おめでとう!おれたちの大好きな科学が勝ったよ!

ではこの後人々が科学的な方面に導かれていくかというと、ご存じの通りそうではありませんでした。

科学の勝因として、こいつらの持つ「万物を疑う」という性質があります。これが科学それ自身にも向かうので成長が異様に早い。PDCAが回りまくってるので業績がずっと右肩上がりなわけですね。さて人々は、というと、宗教と科学という2人の巨人がリングで殴り合ってるのをぼんやり見てたわけです。眺めてると宗教の巨人が倒れた!科学の勝利だ!ヤッター!二代目チャンピオン!今度はこの巨人についていくぞ!と思ったのも束の間、科学の巨人はリング上に居座ったまま自分をボコボコに殴り始めます。

宗教と科学は、どちらも「世界を説明する試み」ではありましたが、科学は宗教のように人々を導くという目的はありません。そもそもが異種格闘技戦だったのです。曙に勝ったボブサップは横綱番付に乗るわけではない。勝負が終わったら自分の仕事に戻ります。つまり、自分で自分を疑い、更に強くなる。これだけが科学の目的です。今まで自分達を導いてくれた宗教を打ち負かしたヤツがいるから今度はそいつについていけば新しい価値判断の指針が得られると思ったのに科学というやつは常に新陳代謝を行うので、昨日まで正しかったことが朝起きると間違ってたことになってるなんてことがザラに起こります。科学は絶対的ではなかった。


3.穴埋めとしてのエセ科学

宗教の章で述べたとおり、人間は迷い、生きる指針を求めます。しかし生きる指針みたいなものをいちいち考えていては疲れちゃうので、その「考える」という部分をある程度宗教が示すところに従えばアラ不思議、道徳的巨人の肩に乗って自然と人として正しい選択ができてしまいます。Excelのマクロみたいなもので、これは生きる上においてかなりの労力の節約になります。

人間の心の中にはこういうマクロとなるものを入れておくための「穴」がある、というのがぼくの持論です。

先に述べた敗北以降、宗教は後退を続けます。新興のカルト宗教のせいでちゃんとした大手の宗派を信仰しようとしてもなんかやばそうだぞってな雰囲気が漂ってきたりします。そうなってくると我々の心の中にある「穴」は埋まらないままです。多くの人はそこに「現代的価値観」みたいなモヤッとしたものをいれてなんとなく良い感じにやってきたのですが、もっと強いものを入れたくなった人たちが作り出したのがエセ科学でした。宗教を打ち負かした科学が、かつてのそれと肩を並べるほどに人知を超えたデケー存在となったがゆえの誕生でした。

エセ科学のすごいところは、かつてリングで激突した二大巨人のいいところを融合させた悪魔超人であるところです。「困ったときどうすればいいか?」という指針を与えてくれる人知を超えたデケー存在であると同時にそれは宗教ではないので「なんかやばそう」ではない!

宗教はこういう「穴」を埋めるために出来上がってきたものなので、100%宗教に思考や行動を預けてしまう人間が出来上がってしまわないようなフェイルセーフが設けられています。「天は自ら助けるものを助ける」なんかはそういうやつでしょう。仏教も「宗教的苦行をすれば報われるなんて思うな」という意味で中道を説いています。ある程度は自分で考えて行動しやがれ。

その視点で見ると、同じ人知を超えたデケー存在に頼るものであるエセ科学は危険をはらんでいます。人間に寄りかかってもらうものとしての歴史が浅いため、100%エセ科学に寄りかかってしまった人へのフェイルセーフが構築されていない。しかも表向きは「人間に寄りかかってもらうもの」の顔をしていないので、周囲やそれにどっぷりハマった人本人すらそれが信仰だと気付きにくい。エセ科学はまがりなりにも科学の顔をしているので、「こういう論文が〜」「こういうエビデンスが〜」というそれっぽい根拠を示してきます。きちんと信憑性が担保されているぜ!と一見は見えますが、論文とか学会みたいな「科学っぽいもの」という人知を超えたデケーものの権威性に根源がある時点でかたちとしては宗教と同じものになります。ほんとうはそれを「科学」として受け止めるなら、科学としての態度で受け止めるべきです。再現性は?先行研究との比較は?根拠となる論文はきちんと査読されていますか?でも、そんなことやってられません。だってめんどくさいじゃん。

正直そのへんの態度は普通の科学に相対する我々と変わらないのですが、エセ科学は宗教の顔を持っているので、例えばテスラ缶に実際効果がなくても問題ないところがヤバいわけです。自分の「穴」を埋めたい、という欲求を満たすためのものなので。さらに悪いことに、エセ科学は商売として活動していることが多いのでよりヤバい。ただの「安物買いの銭失い」ならいいんですが、エセ科学商品は往々にしてその権威を強調するために高額です。病気に悩んでエセ科学にハマってしまった場合、実質的に効果がないものを買った結果治らないわカネは出て行くわでいいところがない。しかもエセ科学は宗教ではないのでそうなったときに適切な手段への乗り換えを薦めないのでかなり危険です。


4.まとめ

陳腐なオカルトめいたエセ科学を信じる人の存在は決して科学の敗北ではありません。宗教に科学が勝利したあとの無人のリングと王座に耐えられなくなった人間が、先の勝者である科学の似姿を、さっきまで宗教が座っていた王座にむりやり押し込めたが故の歪みがあらわれたものです。というのがぼくの考えでした。

上記の文章はぼくの推測というか、素朴な感想めいたものであるので事実と異なるところは大いにあると思われます。また、本来ならこういったものは論文を参照・引用すべきなのでしょうがそれもやってません。だってめんどくさいじゃん。

そう、ぼくが今やってるのもこれを読んでホーンなるほど、って思うのも「裏付けなくそれっぽいものに寄りかかり、信用する」って点ではエセ科学の信者とほぼ同じなんですよ。もちろん世界の全てを疑ってかかることはできないのでポハーの決断めいてどこかで疑うことをやめないといけないのですが。おれはいまやめたぞ。おまえもやめろ。おれをうたがうな。すべてさしだせ。

ふと気になって遡ってみたらだいたい1年前ぐらいからぼんやり思ってたことみたいで、やっとまとまった文章として書けたことを嬉しく思います。

2021.12.28 指 a.k.a. @Digital_usaGi

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