ある雨の昼、私は“正しさ”で人を殴った

コンビニで傘を盗まれた。
スーパーへ買い出しに行った帰り途、ちょっとおやつでも買い食いしようと思って寄ったコンビニで、店を出たら私の傘が忽然と消えていた。あたりを見回したが人はおらず。傘立てに数多挿さっているズタボロのビニール傘を盗むという考えも頭を掠めたが、さすがに良心が痛み、やめた。
傘はそんなに高いものではなかったし雨も小降りだったが無性に腹が立ち、イライラしながら家路を急いだ。
通りの角を曲がると、見覚えのある傘をさした老人が、とぼとぼと歩いていたら。傘の傷み具合も見て、間違いなく自分の傘だと私は確信した。老人に近づき「すみません」と声をかけると、老人はちょっと困ったような曖昧な笑みを浮かべて「どうも」と言った。歳は80前後だろうか。見るからにヨボヨボで、足も引きずっていた。

「その傘、盗みましたよね?」
なるべく冷静に、私は老人を問い詰める。
「え……あ……そうだった……かな……」
曖昧な笑みを浮かべたまま知らないふりをしようとする老人の態度が、私の神経を逆撫でした。
「その傘、私のなんです。返してください」
語気を荒らげないように気をつけたが、言葉は怒気を多分に孕んでいたはずだ。
「あ……そうなのかい……あんた、傘は買わなかったのか……?」
その一言で、我慢の限界に達してしまった。
「そりゃそうですよ! あなたに盗まれたんで!」
半ば強引に、私は老人から傘を奪い返した。すると老人は
「私の傘はどうすりゃいいんだい……」
と、素っ頓狂なことを言い出した。
「知らないですよ! またどこかから盗めばいいんじゃないですか?」
怒りに任せてそう吐き捨て、私は一度も振り返ることなく立ち去った。

家へ帰り、妻に傘が盗まれたことをちょっとだけ話し、数時間経ち、冷静になるにしたがって、後悔の念が少しずつ頭をもたげはじめた。
私の先程の行動にはなんら非はない。傘を盗んだ老人は加害者で、私は傘を盗まれた被害者だ。傘を返してもらう権利はもちろんあるだろう。そう思い込もうと必死に考えた。

それでもじわじわと、私は後悔と惨めさに覆われていった。

あんなことまでして、私は老人から傘を奪う必要があっただろうか? 私の行動が正しいとして、その正しさで老人を傷つける意味はあったのだろうか?
たいして高い傘じゃない。だいぶ使いこんで、そろそろ買い替えないといけないと思っていた傘。雨も強くなかったし、濡れて困るようなものも持っていなかったので、走って帰るという選択肢もあったはずだ。
対して、老人は走って帰るような体力も無いだろう。雨に濡れて冷えたら風邪を引いてしまうかもしれない。あのとき振り返らずに立ち去ったのは、雨に濡れる老人を見たくなかったからだ。雨に濡れた老人を見たら、取り返したはずの傘を差し出してしまうかもしれないと思ったからだ。
惨めな気持ちで、私は先程のやりとりを反芻していた。


私がーーたいして何もなし得ていないーー人生の中で学んだことがふたつある。
『正しいことをしているとき、人はもっとも残酷になる』
『怒っているときの行動はたいてい間違っている』
先程の私は、“正し”く、かつ“怒って”いた。
最悪である。
常日頃から、人を正論やら義憤やらで追い詰めるようなことは厳に慎むべきと律していたにも関わらず、この体たらく。誰かが傘を盗まれたときに、それを取り返すことを否定はしない。しかし、私は、それをしない人生を選択したはずだ。正しさなんてクソ喰らえだ。


大きな後悔と反省の念を込めて、ここに記しておく。


追記
あの老人が健やかであることを願います。あともう二度と傘は盗むな。

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