カンタベリー大司教の血みどろの惨い死。

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米国のMedium Daily Digestの「History-of-Yesterday」として2021年10月06日に、大司教たちは、バイキングに屠殺されたり、火あぶりにされたり、農民に首をはねられたり、不幸な最期を遂げ他と報告した。

西暦597年にさかのぼるイングランド最古の権威ある地位のひとつで、イングランドの教会全体を統括してい他カンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury)には、2つの宮殿と大聖堂、そしてとても豪華な衣装が残っている。しかし、カンタベリー大司教になるのは簡単なことではなかった。広範な権限と責任を持つことで、何か問題が発生した場合には、身代金やライバル、世間からの憎しみの対象にもなり、5人のカンタベリー大司教は、このことを身をもって体験した。

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聖アルフェージュ(Saint Alphege)は、1012年にバイキングに屠殺された。

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アルフェージュは953年頃にバース(Bath)で生まれ、その後バースの修道院に入り、977年から982年にかけてバースの修道院長(Abbot)を務めた。
984年には大司教ダンスタン(Archbishop Dunstan/後の聖ダンスタン/later Saint Dunstan)によってウィンチェスターの司教(Bishop of Winchester)となった。994年にヴァイキング(Vikings)がウィンチェスターを襲撃したとき、アルフェージュは和平交渉に参加し、ヴァイキングのリーダーであるノルウェー王オラフ1世(King Olaf I of Norway)に洗礼を授けたが、彼は後に北欧人のキリスト教への改宗に大きな役割を果たした。
アルフェージュは、アビンドンのエルフリック(Ælfric of Abingdon)の死後、1006年にカンタベリーの大司教に就任した。
その3年後の1009年08月、背の高いトーケル(Thorkell)率いるバイキングの大軍がケント州のサンドウィッチ(Sandwich, Kent)に上陸し、すぐに略奪を開始した。
カンタベリーの人々は銀3,000ポンドのダネーゲルト(danegeld)を支払って助かったが、トーケルはこれを受け取り、イングランド南部の他の地域に軍を転用した。
しかし、1011年09月になると、資金が底をついたのか、トーケルはカンタベリーに戻り、1011年09月08日にノルウェー王オラフ2世(King Olaf II of Norway)の軍と一緒にカンタベリーを包囲し始めました。3週間持ちこたえた後、1011年09月29日についに都市は陥落し、ヴァイキングはカンタベリーに入った。彼らは街を略奪し、大聖堂を燃やし、大司教アルフェージュを含む多くの貴族の人質を身代金として奪った。
アルフェージュはグリニッジ(Greenwich)に連行され、身代金は銀3000枚とされた。しかし、神々しい大司教は身代金を拒否し、民衆にバイキングに一銭も払わないように命じた。しばらくすると、バイキングはもう十分だった。
『アングロサクソン・クロニクル(Saxon Chronicle)』によると、1012年04月14日、酔っ払った暴徒がアルフェージュを襲撃した。
彼らは司教を捕らえて自分たちの集会所に連れて行き、そこで彼に骨や牛の頭をぶつけ、一人は斧の尻で彼の頭を打った。
恐怖におののいたソーケル(Thorkell)は、暴力を止めようと、暴徒に船以外のすべてを差し出した。しかし、それは遅すぎた。アルフェージュは床に倒れて死に、「彼の聖なる血が地に落ちた」のである。
その殉教により、1078年、アルフェージュは教皇グレゴリー7世(Pope Gregory VII)によってカンタベリーの聖アルフェージュ(Saint Alphege of Canterbury)として列福され、現在は誘拐被害者の守護聖人となっている。

ブルートゥース(Bluetooth)のようにヴァイキングが洗礼を授けたという話はよく聞くが、実際は、金目当てということも多かったのだろう。

聖トーマス・ベケット(Saint Thomas Becket)は、1170年に騎士に殺害された。

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トーマス・ベケットは、1119年から1120年頃に、ロンドンのチープサイドの地主(landlord in Cheapside)の息子として生まれた。グラマー・スクール(grammar school)を卒業した後、彼は急速に政治の世界に進出していった。
カンタベリー大司教テオバルト・オブ・ベック(Theobald of Bec,)の書記官として働き始め、1154年にはカンタベリー大司教に昇進した。
翌年、テオバルト大司教はヘンリー2世(King Henry II)に、ベケットを現代の首相のような大法官(Lord Chancellor)にするよう勧めた。ヘンリー2世は感銘を受け、ベケットは35歳という若さで大法官に就任した。

ベケットは教会や貴族への課税を通じてヘンリーに多くのお金をもたらし、二人は親しい友人となった。
1162年にテオバルト大司教が亡くなり、ヘンリーは中世社会の大きな問題の一つである教会と国家の対立を解決するために、友人のベケットを大司教と議長の両方に就任させることにした。
そして、1163年06月03日、実際に司祭になってからわずか1日後に、ベケットはカンタベリーの大司教に即位した。
しかし、ヘンリーの思惑とは裏腹に、ベケットは劇的に変身した。
大司教職を辞して、すぐにヘンリーの侵入に対抗し始めたのである。
1164年01月のクラレンドン(Clarendon)で、ヘンリーは他の司教たちを脅して、教会の独立性を弱め、ローマとの関係を弱めることを求める「クラレンドンの憲法(Constitutions of Clarendon)」に同意させたが、ベケットはこれを拒否した。
ヘンリーは10月にノーサンプトン城(Northampton Castle)で反逆罪の裁判を行ったが、ベケットはあっさりと逃げ出し、フランスのポンティニー修道院(Pontigny Abbey in France)に逃げ込んだ。
6年後、教皇アレクサンダー3世(Pope Alexander III)の仲介により、ヘンリーはベケットがイングランドに戻ることを許可した。しかし、ベケットはイギリス海峡を渡る直前に、ロンドン大司教(Bishops of London)、ソールズベリー大司教(Bishops of Salisbury)、ヨーク大司教(Archbishop of York)がヘンリーの息子であるヘンリーを共同王として戴冠させ、戴冠の特権を奪ったと聞いて破門したのである。

ヘンリーは1170年のクリスマスの晩餐会で、旧友がいまだに問題を起こしていることに激怒し、こんな言葉を口にしたと言われている。
「誰もこの乱暴な司祭を追い出さないのか?(Will no one rid me of this turbulent priest?)」
おそらく無害な言葉だったのだろうが、レジナルド・フィッツァー(Reginald Fitzurse)、ヒュー・ド・モーヴィル(Hugh de Morville)、ウィリアム・ド・トレーシー(William de Tracy)、リチャード・ド・ブルトン(Richard de Breton)の4人の騎士は、王室の命令と受け止め、すぐにカンタベリーに向けて出発した。
1170年12月29日の夜、ベケット大司教は、4人の騎士が大聖堂の外に到着したことを聞いた。彼らは鎖帷子を外套の下に隠し、剣を木に当てたままにして、まず平和的に逮捕しようとした。

ベケットはこれを拒否し、修道士たちに説得されて大聖堂に聖域を求めた。
ベケットの死を目の当たりにしたのは、カンタベリーを訪れていたケンブリッジ大学の修道士エドワード・グリム(Edward Grim, a Cambridge monk who was visiting Canterbury)である。彼はベケットと一緒に大聖堂の中にいたが、騎士たちがドアを破って入ってきて叫んだ。
「国王と王国の裏切り者、トーマス・ベケットはどこだ?(Where is Thomas Becket, traitor to the king and the kingdom?)」
騎士たちはベケットに襲いかかり、乱暴に手をかけたり、引きずったりして、教会の外で殺すか、鎖でつないで運ぶつもりだった。
ベケットは、柱にしがみついて祭壇から動こうとしなかった。その時、騎士たちはベケットを刺したり、斬ったりし始めた。しかし、ベケットは死ぬことなく、ひざまずいてささやくように祈り続けた。一人の騎士がベケットの頭に剣を強く下ろし、王冠が割れ、脳みそが飛び散り、剣が床に砕け散って初めてベケットは死んだのである。その時、騎士たちに同行していた事務員が、聖なる司祭の首に足をかけ、...脳みそを血とともに舗道に撒き散らした。「騎士たちよ、行こう。この者は二度と立ち上がれない。(Let us go, knights…this fellow will not get up again.)」
この血なまぐさい暗殺に、キリスト教界は驚愕した。巡礼者たちは瞬く間に大聖堂の地下にある彼の墓を訪れ、奇跡が起きたと主張した。このような話が急速に広まり、ベケットの死からわずか2年後の1173年2月21日、教皇アレクサンダー2世(Pope Alexander II)はベケットをカンタベリーの聖トマスとして(Saint Thomas of Canterbury)列福したのである。

恐ろしい罪を犯したヘンリー王は、1174年07月12日、袋布を着てカンタベリーの街を歩き、ベケットの墓で僧侶に鞭打たれながら許しを請うたという。

サイモン・サドベリー(Simon Sudbury)は1381年に、農民に斬首された。

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サイモン・サドベリーは、1316年頃、東イングランドのサフォーク州サドベリーで(Sudbury, Suffolk in East England)生まれた。

パリの大学で学んだ後、教皇インノセント6世のチャプレン(chaplain to Pope Innocent VI)を務めた。1356年、教皇インノセントは、エドワード3世への教皇大使(the papal ambassador to King Edward III)としてサイモンをイングランドに帰国させた。
サドベリーはロンドン司教を経て、1377年にカンタベリー大司教に就任。

2年後にエドワード3世が亡くなると、エドワードの10歳の孫であるリチャード2世に冠(Edward’s ten-year-old grandson King Richard II)を授けたのもサドベリーだった。
1380年、サドベリー大主教は、ベケットと同様にイングランドの大法官となった。しかし、フランスとの百年戦争(Hundred Years War)で国庫が空っぽになり、軍隊には3か月分の給料が支払われず、王冠の宝石も質入れされていたため、イングランドの財政を管理するには不向きな時代だった。
そのために、サドベリーは第3の世論調査税(third poll tax)を導入した。
しかし、新しい税を導入するには、さらにひどい時代だった。40年前の黒死病(Black Death forty years before)による大量の死者が出たことによる社会経済的な問題が残っており、税金はすでに高く、農民たちはすでにロンドンのエリートの血(the blood of the London elite)を求めていた。
1381年5月、農民の反乱(Peasant’s Revolt)が起こったのも不思議ではなかった。急進的な司祭ジョン・ボール(John Ball)の説教に触発され、ワット・タイラーに率いられたケント州の農民反乱軍の大軍がロンドンに進軍し、税金の削減、農奴制の廃止、多くの王室閣僚、特にサドベリー大司教の降伏を要求したのである。
王室の軍隊がフランスに駐留していたため、リチャード王とサドベリーをはじめとする宮廷関係者はロンドン塔に退却した。6月13日、ロンドンに到着した農民たちは、すぐにロンドンを略奪した。翌日、14歳のリチャード王(fourteen-year-old King Richard)は、ロンドン郊外のマイルエンドでワット・タイラー(Wat Tyler)と反乱軍と会い、彼らの条件を受け入れた。
しかし、タイラーら反乱軍が国王と交渉している間に、農民の大群がサドベリーら大臣のいるロンドン塔(Tower of London)を襲撃した。サドベリーの人気があまりにも低かったため、塔の衛兵は反乱軍を戦わずに門をくぐらせてしまった。大司教は、セント・ジョンズ・チャペル(St John’s Chapel)での礼拝の途中で、大蔵卿ロバート・ヘイルズ(Lord High Treasurer, Sir Robert Hales)とともに教会から引きずり出され、反逆者の処刑場であるタワー・ヒル(Tower Hill)に連れて行かれた。

しかし、これはきちんと訓練された斧使いによる正式な処刑ではなかった。狂乱した群衆は経験が浅く、サドベリーを仕留めるのに斧で8回も叩いたという。

サドベリーの首は、農民たちによってウェストミンスター(Westminster)周辺をパレードされた後、ロンドン橋のスパイクに突き刺されて(stuck on a spike on London Bridge )皆の目に触れた。数週間後に反乱軍が敗北すると、サドベリーの遺体はカンタベリー大聖堂に運ばれて埋葬された。しかし、ロンドン市長は、頭を大司教の生まれ故郷に戻すべきだと判断し、サドベリーのセント・グレゴリー教会(St Gregory’s Church in Sudbury)に寄贈したのです。このミイラ化した頭蓋骨は、現在も教会で公開されている。

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つまり、政策に失敗して殺され、死んでもさらにものにされている。

現代は、あれだけコロナで失敗しても、菅元総理や小池百合子東京都知事は、のほほんといきている。

トーマス・クランマー(Thomas Cranmer)は1556年に、火あぶりの刑になった。

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トーマス・クランマーは「宗教改革者の大司教」としてよく知られており、プロテスタントで初めて大司教に就任した人物である。
1489年にノッティンガムシャー(Nottinghamshire)で生まれた彼は、ケンブリッジ大学(Cambridge University)で学び、1520年にフェローとして叙階された。
1532年、クランマーは神聖ローマ皇帝(Holy Roman Emperor)への英国大使に任命された。当時、帝国はプロテスタント改革の地獄絵図の中にあり、クランマーはルター派のニュルンベルク(Lutheran Nuremburg)でプロテスタントに改宗したのである。
1532年10月、後援者であるアン・ブーリン(Anne Boleyn)の助言によりヘンリー8世(Henry VIII)からカンタベリー大司教に任命された後、ヘンリーの「大問題」を解決したのはクランマーであった。
彼は直ちにヘンリーとキャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon)の結婚を解消することに着手し、1533年5月にそれを無効と宣言した。また、前年の1月に秘密裏に行われたヘンリーとアン・ブーリンの結婚を有効とし、6月にアンを女王に戴冠させた。
クランマーは、教会や祈祷書のさらなる改革を試みたが、ヘンリーがカトリックに傾倒していたため、聖書の英語翻訳以上の成果は得られなかった。
しかし、1547年にヘンリーが亡くなり、9歳のエドワード6世(Edward VI)が後継者となると、クランマーと彼の仲間のプロテスタントは、本格的な改革に乗り出した。英国プロテスタントの中心的存在となった「共通祈祷書English Protestantism)」は1549年に出版され、1552年には再発行された。
しかし、1553年07月にエドワード15歳でが死去し、クランマーは不運なジェーン・グレイ女史(Lady Jane Grey)を王妃として支持する少数派の一人となった。しかし、8月にヘンリー8世の長女で人気の高いカソリックのメアリー1世(Mary I)が王位を奪還したため、彼女の9日間の治世は終わった。
敬虔なカトリック教徒であるメアリー1世は、時計の針を1532年に戻し、改革の痕跡をすべて消し去ろうとした。
しかし、クランマー大司教は、「教皇派」の正統性に戻ることを拒否した。
カソリックのミサを行うことを拒否したクランマーは、反逆罪で逮捕され、ロンドン塔に送られた。
塔での2年間の生活を経て、1555年09月、クランマーはオックスフォードで、教皇の管轄下にある反逆と異端の罪で裁判にかけられた。
彼は有罪となり、1555年 12月04日、バチカンは彼の大司教職を剥奪し、イギリス当局が刑を執行することを許可した。
そして異端者として火あぶりにされることになった。
命の危険を感じたクランマーは、すぐにプロテスタントとして、また大司教として行ってきたことをすべて撤回した。彼はローマへの復帰を率直に歓迎し、教皇の権威や、聖餐式を認めるようになった。

どこかにもいますね〜掌を返したような宗教か。

しかし、メアリー1世は自分の両親を離婚させ、自分のライバルを支持した男を見せしめにしたいと考え、彼の処刑は延期されただけだった。
1556年03月21日の処刑の日、クランマーは大学の教会で最終的に公に撤回することになっていた。

しかし、ジョン・フォックスの『殉教者の書』(John Foxe’s Book of Martyrs, Cranmer)によると、クランマーは説教壇に立つやいなや、それまでの撤回を放棄し、教皇を「キリストの敵、反キリスト、そしてそのすべての誤った教義(Christ’s enemy, and antichrist, with all his false doctrine)」と呼ぶなど、カトリックに対する暴言を吐いたという。教皇派の復唱の罰として、復唱を書いた右手を最初に燃やすと誓った。
クランマーは説教壇から外の杭まで引きずられ、鉄の鎖で縛られた。
フォックスによれば、薪が燃やされ、火が彼の近くで燃え始めると、彼は右手を炎の中に入れ、それを非常に堅固で不動のものとした。彼の目は天に向けられ、声が我慢できる限り、何度も「Lord Jesus, receive my spirit」を繰り返した。
トーマス・クランマーは、カンタベリーの大司教の中で唯一火刑に処された人物でる。

ウィリアム・ラウド(William Laud)は1645年に、議会によって斬首された。

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ウィリアム・ラウドは、1573年にレディング(Reading)で布地職人の息子として生まれた。オックスフォード大学(University of Oxford)で学び、当時イギリスの大学ではカルヴァン主義(Calvinism)が主流であったが、彼は司教の階層による教会統治のエピスコパリアニズム(Episcopalianism)を支持する姿勢を示した。1601年にオックスフォード大学の司祭に叙任され、1616年にはグロスター大聖堂の院長(Dean of Gloucester Cathedral)に就任した。
ラウドは「アルミニウス主義(Arminianism)」を信奉していた。
アルミニウス主義とは、カルヴァン派の宿命や単純な信仰に反対して、より伝統的で疑似カソリック的な信仰を主張するものである。
それはまた、伝統的な教会の統治形態に激しく従うことを意味しており、清教徒がイングランド教会の総督であるジェームズ1世(King James I)に不満を抱くことは、彼にとって嫌悪すべきことであった。1621年に宮廷でジェームズ王の前で行われた説教の中でこのことを述べ、ピューリタンを信用できない裏切り者として叱責したところ、ジェームズ王は大喜びで、その10日後にラウドをセント・デイヴィッド司教(Bishop of St David)に任命した。
1625年にジェームズの息子であるチャールズ1世(Charles I)が即位すると、ラウドはすぐにバース・アンド・ウェルズの主教(Bishop of Bath and Wells)とチャペル・ロイヤルの学部長(Dean of the Chapel Royal)に就任し、1628年にはロンドンの主教となった。
1629年にチャールズが議会を永久解散させ、個人統治の時代に入ると、議会の絶え間ない駆け引きを嫌っていたラウドは、敬虔な気持ちでこれを支持した。
その甲斐あって、チャールズは現職の大司教であるジョージ・アボット(George Abbot)を解雇し、ラウドは1633年にカンタベリー大司教に就任した。
その後の7年間、ラウド大司教は、彼の考えでは教会をかつての栄光に戻すために多くの改革を行った。祭壇は1547年以来、初めて教会の東端に移され、柵が設けられた。ロウソクや奇抜な聖職者の衣装が再導入され、共同で歌うことが復活し、聖体を受け取る際の跪きが義務化された。
プロテスタントの強硬派やピューリタンにとって、これらの改革は教皇派の偶像崇拝や迷信への回帰にほかならなかった。ラウドは、個人規定の支持と宗教改革の両方で、世界中から嫌われていた。
1640年11月、スコットランドでの宗教戦争(religious war in Scotland)に伴う財政負担のため、チャールズは11年ぶりに議会を召集した。1648年まで続いたことからそう呼ばれるロング・パーラメント(The Long Parliament)は、ピューリタンを中心とした議会で、すぐに過去10年間の過ちを正そうとした。
1641年11月、彼らは「大諌言(Grand Remonstrance)」を発表し、すべての司教の解任、王室の役人の粛清、王室の任命に対する議会の拒否権など、204の反対意見、不満、命令を列挙した。チャールズは誰一人として司教を解任することはなかったが、旧友であるラウド大司教を犠牲にすることを決めた。
1641年末、ラウドはイングランド国家への反逆罪で逮捕され、ロンドン塔(Tower of London)に幽閉され、イングランド内戦の大半を過ごした。強硬派の議員の中には、ラウドを裁判にかけ、処刑することを望む者もいたが、議会の大半は、68歳になっていた老大司教が塔の中で死ぬことを望んでいた。
1644年の春、ラウは反逆罪で裁判にかけられたが、実際には反逆罪として定義できるものがなかったため、評決は出なかった。それでも懲りずに、議会は1644年末に、ラウドを反逆者とし、死刑を宣告する法案を可決した。
王自身がオックスフォードに亡命中であったため無駄であったが、チャールズ王から恩赦を受けたものの、71歳のラウドは1645年01月10日にタワー・ヒルの足場に登り、首をはねられた。

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