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ドイツのアーティスト、オスカー・シュレンマーが生まれた。

ArtDailyは2020年09月04日に、ドイツのバウハウス(Bauhaus)の教員であり、画家、彫刻家、デザイナー、振付家であったドイツ人のオスカー・アルフレド・ヴィクター・シュレンマー(Oskar Alfred Victor Schlemmer/オスカー・シュレンマー/Oskar Schlemmer/1888 - 1943)が、19世紀から20世紀初めにかけてドイツ南部を統治したヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)のシュトゥットガルト(Stuttgart)で、実業家で喜劇作家であったカール・レオンハルト・シュレンマー(Carl Leonhard Schlemmer/1833 - 1902)とミナ・ノイハウス(Mina Neuhaus/ルイーズ・ヴィルヘルミーネ・シュレンマー/Luise Wilhelmine Schlemmer/1849 - 1906)の子として1888年09月04日に、生まれたと報告した。

しかし、ワイマール共和(Weimarer Republik)政下でのシュトゥットガルト近辺はヴュルテンベルク自由国民国(Volksstaat Württemberg)であった。

1899年に、ゲッピンゲン(Göppingen)に移り住み、結婚していた姉のヴィルヘルミン「ヴィルマ」モルゲンシュテルン(Wilhelmine "Wilma" Morgenstern)とその家族と一緒に暮らした。

そこで彼は中等学校に通い、芸術的に非常に優れた生徒であることが証明された。

両親は1900年ごろ亡くなり、少年オスカー・シュレンマーは1903年に、経済的な理由で退学した。より完全な自活を余儀なくされ、未婚の妹ヘンリエット(Henriette)のいるシュトゥットガルトに引っ越し、妹と一緒に暮らしたという情報もある。

さらに一部のデータでは、兄弟が6人とあったとあるが、Geni.comでは兄弟はない。
1903年に彼は象眼の工房ヴォルフェル & キースリン(Wölfel & Kiessling)で見習いとして働き始め、1905 - 1909年にかけて別の寄せ木細工の工房で徒弟修業を繰り返し、生計を立てていた。

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その後、オスカー・シュレンマーは、シュトゥットガルトの美術学校Kunstgewerbeschuleと絵画学校シュトゥットガルト美術アカデミー(Akademie der Bildenden Künste/Stuttgart Academy of Fine Art)で学ぶために、奨学金を獲得し、クリスティアン・ランデンベルガー(Christian Landenberger)やフリードリヒ・フォン・ケラー(Friedrich von Keller)の下で風景画を学び、1910年に兄カール(Carl)の住むベルリンに移住し、ヘルヴァルト・ヴァルデン(Herwarth Walden)の画廊「デア・シュトルム(Der Sturm)」周辺のサークルでヨーロッパの前衛芸術を知ることになった。1912年に再度故郷のシュトゥットガルトに戻り、アドルフ・ヘルツェル(Adolf Hölzel)の門下生(マイスターシューラー/Meisterschüler)となり、印象派を捨て、キュビズムに傾倒した作品を制作する。

1913年から1914年にかけて、シュレンマーは、ウィリー・バウマイスター(Willi Baumeister)、ヘルマン・シュテンナー(Hermann Stenner)とともに、ヘルツェルから1914年のドイツ工作連盟展のメインホールの壁画12点の構想・制作を任された3人の弟子の一人であった。

1913年、オスカー・シュレンマーは弟のヴィルヘルムとともに前衛的なギャラリー「Neuer Kunstsalon am Neckartor」を開き、オスカルとその友人たちはここで作品を発表した。

このギャラリーは、マスコミや一般の人々の否定的な反応を受け、翌年には再び閉鎖されることになった。

シュレンマーは、ヴュルテンベルク州立劇場(Württemberg State Theater)のソリストだったダンサーのエルザ・ヘッツェル(Elsa Hötzel)やアルベルト・ブルガー(Albert Burger)との友情に刺激され、幼い頃から熱心なバレエ・ファンであった。

1914年、第一次世界大戦の勃発により、オスカー・シュレンマーは西部戦線に従軍、その後、ドイツとフランスの国境地帯のコルマール(Colmar)で負傷し、コルマールの陸軍の地図作成業務(military cartography unit in Colmar)に携わった。

1919年、シュレンマーは彫刻に転向し、ベルリンのギャラリー「デア・シュトルム」で作品展を開催した。

シュレンマーは1920年10月に、マンハイム出身のヘレナ「トゥット」トゥテイン(Helena "Tut" Tutein/1889 - 1987)と、シュトゥットガルトで結婚した。
2人の間には、
女優になったカリン(Karin/1921 – 1981)、
舞台デザイナーになったウテ・ヤイナ(Ute-Jaïna1922 - 2010)、
第2次世界大戦中に戦死したティルマン(Tilman/1925 - 1944?)がいた。

シュレンマーは、1922年9月30日にシュトゥットガルトで初演された「トライアディック・バレエ(Triadisches Ballett/3組のバレエ)」で国際的に知られるようになった。

1916年から1921年にかけて完成させた「トライアディック・バレエ」は彼の最も有名な作品になり、衣装を着た俳優が、彼の「形と色のパーティー」を表現した人体の幾何学的で人間工学的な表現に変身させた。

彼は1923年に、彫刻のワークショップで働いた後、バウハウス劇場(Bauhaus theatre)のワークショップで造形主任(Master of Form/フォーム・マスター)として雇われ、主要なメンバーの一人として活躍した。

ドイツにおける政治の潮流は、ヴァルター・アドルフ・ゲオルク・グローピウス(Walter Adolph Georg Gropius/1883 - 1969)の後継者として、1928年からバウハウスの第2代校長を務め、過激な共産主義者だったハンネス・マイヤー(Hannes Meyer/Hans Emil Meyer/1889 - 1954)を支持したオスカー・シュレンマーは、ハンネス・マイヤーが1931年に校長を解雇され、オスカー・シュレンマーも活躍の場をポーランド・ヴロツワフ(Wrocław)へと移すことを余儀なくされた。

また、ナチスの台頭により、彼の作品は廃退的であるとみなされた。

今回公開された写真は、オスカー・シュレンマーによる1922年にシュトゥットガルトで初演され「トリアディッシュバレット(Triadisches Ballett)」のコスチュームである。

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