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大学を中退しライターに。父に理解されなかった生き方〈介護幸福論 #3〉

「介護幸福論」第3回。母親からのSOSを受け帰郷。母は病に倒れて入院、そして認知症の父を自宅で介護することになった。しかし長年父との間にはミゾがあった。教師だった父は、大学を中退してフリーライターになった自分の生き方と仕事を理解してくれなかった。

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■頑固一徹な父とぶらぶら息子

 ぼくが親と疎遠だったのは、父親との関係が良くなかったからだ。

 父について書くのは、どうやっても楽しい話になる予感がなく、できれば避けて通りたいのが本音である。しかし、楽しくなかろうと向き合わなくてはならない。

 うちは教師一家で、父も母も学校の先生だった。

 父は昭和ひと桁の生まれで、頑固一徹。世俗的なことに疎く、テレビはNHKのニュースしか見ないような人である。ケータイやメールなんて、これっぽちも興味なし。短気で怒りっぽく、ぼくがグレかけた高校生の頃は、何度ぶん殴られたか数え切れない。

 田舎にはまだそんな、ちゃぶ台返しの星一徹か、向田邦子さんのエッセイに出てくるような、天然記念物級に古めかしく、厳格な父親がリアルに存在する。

 一方、こちらはいわゆるフリーランスのライター。大学は中退。どんな仕事をしているのかも親はよく知らず、説明しようとしても伝わらない。おまけに40歳を過ぎても家庭を持たず、持つ気配もない。

 厳格な教師一家の父親と、東京でふらふらしているフリー自由業の独身息子。

 親子の関係を想像してもらえば、これが良好なはずはないと見当がつくだろう。会えば言葉くらいは交わすが、もう25年くらい、まともな会話をした記憶がなかった。

■「もっと真っ当な仕事をしろ」

 いつだったか、晩酌で酔っ払った父が電話をかけてきてぼくの仕事の話になり、「おまえはいつまでつまらんことを書いてるんだ。もっと真っ当な仕事をしろ」と吐き捨てられた日もある。

 ぼくはライターになりたての頃、女性の裸がたくさん載っている雑誌でよく仕事をしていたので、その雑誌の名刺を持っていた。両親が上京してぼくのアパートを訪れた時に、父がその名刺を見つけ、あとで雑誌について調べたのだろう。

 大学を中退した息子がどんな仕事をしているかと探ってみたら、エロ写真満載の雑誌の記者だったというオチである。そりゃまあ確かに客観的に同情する。

 そんな父親がいつしか認知症になり、ひとりで生きていくのが難しいおじいちゃんになってしまった。

 そして今度は、父の面倒を看てきた母が病に倒れてしまい、やむなく、あわてて、親と疎遠だった不義理の息子が駆けつけたのだ。

■でも、いまさらケンカしようとは思わなかった

 だから実家に帰った時、母がまっさきに心配したのは、父とぼくの関係だった。
「ケンカするなね。おとうちゃんを怒らんでやって」

 顔を合わせれば、沈黙か、いさかいか、どちらかになってしまう父と息子の不仲は、母にとって自分の病気よりも心配のタネだったのだろう。

 母はしばらく入院するしかない。期間も読めない。その間、父は介護施設の空きがあるときだけショートステイをお願いして、あとはぼくが自宅で世話をする。これが最初に課せられたミッションだった。

 長年折り合いの悪かった父と息子が、認知症という重荷を乗せた状態で、ひとつ屋根の下で暮らす。これはホラー映画か、コントか、どっちだ!? 母が不安に思うのも無理はない。

「大丈夫、大丈夫。ボケちゃったおじいちゃんを怒りやしないから、安心して入院して」

 現実に、以前とは人が変わり、目の光をなくした落ち武者のような父を目の前にすると、とてもケンカする心境にはなれなかった。
「お願いね。おとうちゃんに癇癪(かんしゃく)を起こさんでね」
 念押しする母を病院に任せ、ぼくはとりあえず今日の父の晩御飯をどうするかに、頭を巡らせた。

 こうして父の世話は自宅介護とショートステイをつなぎ、母は療養と手術のために数ヶ月の入院という、介護生活第一期が始まる。

 しかし、父には一緒に暮らす上でのハードな課題がほかにもあった。目の光は枯れても、体と足腰はいたって元気。徘徊癖があったのである。

*プロフィール
田端到(たばたいたる)。1962年、新潟県生まれ。大学を中退後、フリーライターに。競馬や野球を中心に著書は50冊以上。競馬の分野では「王様」の愛称で知られる。ほかにテレビドラマや映画のセリフ研究家、アスリートの名言コレクターの肩書きを持つ。両親の介護をするため、40代後半で帰郷。6年間の介護生活を送る。
ツイッターアカウント:https://twitter.com/4jkvvvypj6cdapf

※本連載は毎週木曜日に更新予定です

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