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ソ連が載った地図帳を母のために買い替えてあげたけど。〈介護幸福論 #38〉

「介護幸福論」第38回。ある日、あっけなく母は旅立ち6年近い介護の日々は終わった。遺品整理をしていたら一つの地図帳が出て来た。それが「文字の大きな地図帳」だ。

■「ソ連」が載っていた地図帳

 母が介護ベッドで生活するようになってから、新しい「地図帳」を買ってあげた。

 母はクイズ番組を見るのが好きで、テレビの脇にはいつも地図帳が置いてあった。知らない地名や世界遺産が出てくると、すぐにその地図帳を取り出して調べ始める。知らないことをそのままにしておけない性分なのだ。

 しかし、地図帳はすごく古かった。20年前か、30年前か、中学校の社会科の教材として使用されていた地図帳。うちは父も母も教師だったから、職場から余った教材をもらってきたらしい。

 その年代物っぷりに気付かされたのは、一緒にフィギュアスケートを見ていて、カタリーナ・ビットの演技が流れたのがきっかけだった。1984年のサラエボ五輪と88年のカルガリー五輪、女子シングルスの金メダリスト。銀盤の女王として一時代を築いた、東ドイツ出身の有名なフィギュアスケーターだ。

「オリンピック名場面」のような番組があると、必ずビットの「花はどこへ行った」の演技が流される。かつて金メダルに輝いたサラエボの地がその後、ユーゴスラビア紛争に巻き込まれ、街が破壊されてしまったことへの抗議を込めた反戦メッセージのプログラムである。

 母はフィギュアスケートが大好きで、グランプリ・シリーズなどの国際大会の中継は欠かさずに見ていた。お気に入りの高橋大輔の演技は、いつもハラハラ見守るように手を合わせて応援し、ジャンプで転倒しようものなら「あーっ、もうダイスケは!」と80歳のおばあちゃんが興奮していた。ソチ五輪の出場がぎりぎりで決まった時は本当に喜んでいた。

 そんな母がカタリーナ・ビットの懐かしい映像を見ながら、ぼそっとつぶやいた。

「サラエボとか、コソボとか、この辺のことは全然わからないんだて」

 地図帳を手に取りながら続ける。

「この地図見ても、ちょっと古いせいだろうかね、今の国の名前が載ってなくて」

 母の地図帳を借りて確かめてみたら、ドギモを抜かれた。ちょっと古いなんてもんじゃない。

 地図にはユーゴスラビアという連邦国が記載され、スロベニアやクロアチアも、セルビアやモンテネグロもまだ同じ国だった。ほんの少し東へ目を移せば、まだ巨大なソビエト連邦が存在していた。
 
「これ、いつの地図だよ! ソ連があるよ!?」

 国の名前や国境というものは、歴史の流れの中で激しく変わっていく。ユーゴスラビア連邦共和国やソビエト連邦が解体されたのは1991年。母はこの地図帳を、それより以前から使い続けてきたことになる。

 21世紀の今、ユーゴやソ連が載っている世界地図帳なんて、骨董品としてネット・オークションや『なんでも鑑定団』に出せるかも知れない。シャレのわかる鑑定士なら「世界の激動の歴史を学べる地図帳」として、3000円くらいの値を付けてくれるだろう。

■ルーペ付きの大きな文字の地図帳をポチり

 これではまずい。新しい地図帳を買ってあげなくてはならない。

 はたして中学や高校の教材で使うタイプの地図帳が、ネットショップで市販されているのかと手探りだったが、予想以上にいろんな商品が売られていた。なかでも興味を惹かれたのは「ルーペ付 大きな文字の地図帳」(帝国書院)という、文字の大きさを売りにした地図帳だった。

 なるほど、こんな年寄り向けの地図帳まであるのか。さすがは高齢大国ニッポン。老眼の年齢になっても、勉強熱心な人がたくさんいるということか。さっそくポチっと購入してみた。

 数日して届いたこの地図帳は当たりだった。母に渡してあげると、
「いいねえ。字が大きくて、見やすいねえ」
 と、第一声から好感触。目を輝かせ、ページをめくっている。

「ルーペ付」のルーペとは、平たいシートタイプの拡大レンズだった。これがまた手頃で、しおり代わりにも使える。

 ぼくもパラパラとながめてみたところ、確かに見やすい。文字が大きいだけではなく、地図の縮尺も大きいから、全体的に迫力のある地図帳ができあがっている。

 カタリーナ・ビットが嘆き、哀しんだサラエボも、ちゃんとボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都として掲載されていた。止まっていた世界の歴史が、我が家の中で一気に20年以上進んだ。

 その日以降、文字の大きな地図帳は順調に母の活用アイテムになった。置き場所はテレビの脇ではなく、介護ベッドの枕元。ここならいつでも手が届く。

 世界地図だけでなく、日本地図も大きめの縮尺で掲載され、京都や奈良のお寺の名前が網羅されているところも、母のお気に入りポイントだった。

 母は旅行が好きで、元気な頃は京都のお寺巡りなどによく出かけていた。地図を見ながら、旅の思い出をたぐっていたのだろうか。
          
 こんなに気に入ってもらえるなら、もっと早く買ってあげれば良かったな。

■母はあっけなく旅立った

 あらためてそう思ったのは、母の遺品整理をしていて、この地図帳がベッドの下から出てきた時だ。

 寝ている間に、ベッドの脇の隙間から滑り落ちてしまったのだろう。気付いていれば拾ってあげたのに、いったい、いつから落ちていたのか。

 前回に記した手術から1ヶ月ちょっと、母はあっけなく旅立った。ぼくの6年近い介護の日々も終わった。

 母が最後に愛用した「文字の大きな地図帳」は、簡単に処分できない。ぼくが引き継いで使い、ニュースやクイズでわからない地名が出てきたら、すぐ調べられるようにテレビの脇に置いておこう。

 ぼくもいよいよ老眼に悩まされるようになった。新しく作ったメガネはついに遠近両用だ。おかげで今は、文字の大きな地図帳がありがたい。母のために買ってあげたものが、こうして自分の役に立つなんて。

 どうせなら、この地図帳をボロボロになるまで使い込んでやろうと思っている。もしも今後どこかの国が分裂して、国境が変わっても、もうこの地図帳は捨てられない。

*プロフィール
田端到(たばたいたる)。1962年、新潟県生まれ。大学を中退後、フリーライターに。競馬や野球を中心に著書は50冊以上。競馬の分野では「王様」の愛称で知られる。ほかにテレビドラマや映画のセリフ研究家、アスリートの名言コレクターの肩書きを持つ。両親の介護をするため、40代後半で帰郷。6年間の介護生活を送る。
ツイッターアカウント:https://twitter.com/4jkvvvypj6cdapf

※本連載は毎週木曜日に更新予定です


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