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マウント・オブ・デコレーション #パルプアドベントカレンダー2021

■1

 タイヤがアスファルトを噛む音が聞こえる。

 ぼんやりと大学時代を思い出した。隣にいたのは友達か彼女か。くだらない話で笑いあいながら、道を行く自動運転車達の駆動音を聞いていた。
 懐かしい。最近は砂利道を走る軽トラの音しか聞いていない。
 だからこれは夢。目覚める前に見る、少しだけ嫌な気分になる夢だ。

 ごりり

 上京して、入学して、就職して……。情景を追いかけていると、軽い音がずっと下の方から響いてきた。これは鍵の音だ。シリンダーにキーが入る音。これもまた久しく聞いていない。街で下宿に住んでいたころは―――。

「―――なんだとッ」

 危機感が眠気とまぶたの重さを吹き飛ばした。半透明の防寒幕越しにまだら模様の天井が見える。そっと幕を外して起き上がると、窓の外から差し込む日の光に顔をはたかれた。

 がちゃりと重い音が底冷えする館内に響き、続いてぎっぎっと蝶番が錆を噛む音が鳴る。1階の守衛室の扉だ。

 誰かがやってきた。鍵を持って、俺しかいないこの研修施設へ。

 寝袋のジッパーを静かに下し、靴を履いてむき出しのコンクリ床を踏む。かつての会議室は広くて寒く、差し込む日光ばかりが暖かで美しい。
 光を追って廊下へ出る。長く続く廊下はほかの空き部屋のドアが並び、その前には室内から運び出した床材やら未処分の机、いすその他ガラクタが積みあがった山が並ぶ。
 小山の一つにしゃがんですがりつき、外光をとりこむ窓へ近づく。腰高の壁にはりついて天井まで届くガラス窓にそっと顔を近づけた。

 広く広く、視界が開ける。みごとに紅葉した雑木林の尾根が左右に連なり下界へ下っている。正面にはへびのように折り重なる舗装道路が懸命に急斜面へはりつき、その尾は林に飲まれて消えていた。
 林は森へ。森はやがて都会へ。ゴミ山のような色彩の都会は視界の先へ広く広がっていき、海にぶつかって止まっていた。

 いい景色だ。空と山と海は今日も変わらず美しい。だが窓の真下を見ると、建物の車寄せに見慣れない車が一台。

 ライトグレーのセダンタイプ。地味な車だ。目だった傷は無いが新車でもない。ナンバープレートはここからでは見えないが、近所の人の車でないことはわかる。ガラスをいじっているのか、車内が見えづらかった。

 いったい誰だ。何しに来た。

 このビルは建設時、すでに役目を終えている。高原研修施設という名の節税対策を終えて以降、あの会社がこのビルを有効活用できたとは思えない。いくつかの山林プロジェクトのためのベースキャンプにはなったが、それ以外は俺のような人間を押し込めておくリストラ小屋扱いだったのだから。

 前のビルオーナーかその関係者。あるいは新たなオーナーが現状を確認しに来たか。そうでなければ鍵を持っているわけもない。
 しかし、それにも違和感がある。あそこに車を止めたなら正面エントランス脇の通用口を開けて入るはずだ。なぜ裏口に回る?

 そういえばロータリーに止めた車は、下の道からは木々が邪魔で見えない位置だ。加えて裏口から入れば誰かに姿を見られることもない。
 いま裏口を開けようとしている人物は、人目を避けているように思える。では、人里離れた無人の放棄ビルへ入るのになぜそこまでするのか?

 心当たりがある。去年の春先、どこぞから夜逃げしてきた一家が忍び込んできた。一昨年だったかには木の盗伐をした連中が『ここを借りた者だ』なんて言って我が物顔で踏み込んできたこともある。

 きぃ、と音が響いた。続いてごつ、ごつ、と重い靴音。

 去年の家族も盗伐人共も、ここを根城にしようと入り込んできたが鍵までは持っていなかった。では鍵を開けて入ってきたこいつは?

 会社はここを閉鎖するまでに金目の物を全て持ち出していった。廊下や階段下には価値のないガラクタが段ボールに入ったまま積み上げられている。あの会社の関係者がいまさらそんなものを求めて来るとは思えない。この場所の価値なんて、ここにこうして建物が建っているという事実程度だろう。

 あるいはそれこそが目的だろうか。隠れて物の受け渡しや集積をしたい連中にとっては有用なところかもしれない。こんなところ、警察もたまに見回りに来るかどうかだ。

 ふと、侵入者の足音が最初の数歩で止まっていることに気付いた。確か2、3歩しか歩いていないように思う。入口から中の様子をうかがっているのだろうか。

 まさか俺を知っているのだろうか。このビルに一人で住む俺のことを。

■2

 出し抜けに芝刈り機のような音が響いた。思わず辺りを見回すが、建物の中じゃない。

 静かに体を沈め、廊下の窓下に潜んだ。音は外壁に沿って下の方からせり上がってきて、ガラス越しに俺の頭上をとって静止する。宙に浮くその姿が会議室内に影絵となって落ちた。

 ドローンだ。球形のドローンが窓の外で滞空している。一機だけではない。耳を澄ますと同じような音がいくつか飛び交っているようだった。

 まさかと思ったが、そのまさからしい。
 どこの誰がドローンを使ってまで無人の建物を捜査する? この機体の持ち主は、俺がいることを知っているのだ。知ったうえで、正確な位置を掴もうとしている!
 まともな人間なら声に出すはずだ。「こちらにお住まいの方、どこにいらっしゃいますか?」とか。よしんば悪意があったとしても声かけは害にならない。俺は、はーいと答えて下まで降りて行ったことだろう。
 だがこの相手は違う。静かに車で乗り付け、裏口を開けて、ドローンでこちらをいぶりだそうとしているのだ。

 まずい。この相手はまずい。ついに恐れていたことが、本物のやくざがやってきたのかもしれない。逃げなければ。ここからだと林業組合の作業小屋が一番近い。あそこへ逃げ込めばなんとかなる。

 作業小屋へ通じる林道はビルの左右にそびえた擁壁の向こうに通っている。まともに行こうとすると車寄せから林に入ることになるが、それでは確実に見つかる。

 そうだ、2階のバルコニーがある。東西に扁平なこのビルは両端に直通階段があり、階段の踊り場から建物外周を巡るバルコニーへ出られる。2階のバルコニーからなら木へ跳び移って林道に降りられるかもしれない。危ないが、この相手に捕まるよりはマシだろう。

 廊下を見渡す。濃い影を作る腰壁とガラクタの山が連なっている。西階段、東階段共にバルコニーはあるが、東階段を下りて行けば1階は守衛室だ。侵入者と鉢合わせにはなりたくない。西に行くしかない。

 姿勢を低くして廊下を進む。途中のゴミ山から、汚れたカーテンを拝借して被った。かび臭いが、ここでは迷彩になるかもしれない。

 外を伺う。ドローンは建物の周囲をぶんぶんと周回し、まるで表面を舐めているようだ。だが数は少ない。いちどやり過ごしてしまえば次に来るまで何メートルかは進める。
 かがんで壁に背を預け、日に照らされた床を見つめる。丸い影が頭上を通り過ぎる瞬間、腹の中で数え始める。1、2、3・・・・・・。再びドローンがやってきて通り過ぎた。およそ30秒。

 かぶった布を掴み、ガラクタの山から次の山へ滑り込む。隣の会議室の開きっぱなしのドアから北側の窓が見えた。ドローンは、いない。

 階段までたどり着く。しかし安心はできない。踊り場を照らすスリット窓がある。それも三方向に。腰壁もないから隠れて移動することもできない。
 掃除するにも細かく面倒な場所だったが、この状況でも人の足を引っ張ってくれる窓だ。

 幸い窓一つ一つの幅が狭いため、踊り場の隅に寄ればドローンから見られることは無いはずだ。足音を立てないように駆け、階段の隅でカーテンをかぶって丸くなる。

 その時、軽い音が外から聞こえてきた。眠っているときにも聞いた音。アスファルトの上をタイヤが転がる音。

 ドローン周回の切れ目で外をうかがうとはたして、セダンがゆっくりと車寄せを滑っていた。
 陽光がフロントガラスを過ぎり、一瞬だけ車内が照らされる。光はシートやダッシュボードを照らしてすぐに消えた。他には何も、誰もいない。無人だ。車内は。

 少し安心した。いまのところ建物に入ってきた輩は一人。車に同行者がいなければ、闖入者は一人だけということだ。

 車はするすると建物の前を進み、階段の壁に阻まれて見えなくなった。だがあの先は建物の裏手だ。

 守衛室の前へ向かったのだろうか。やつが帰るために車を呼びつけて。そうだと嬉しい。こうしてもう少し潜んでいればやり過ごせる。

 外の騒音が変わった。ドローンたちが奇妙な唸り声を上げている。窓をのぞこうと身を乗り出しかけて、慌てて身を退いた。直後、細い窓のすぐむこうを三機のドローンが飛び去って行った。

 それきり、羽音はぱったりと止んだ。

 諦めたのか。ドローンで俺をいぶりだすのをやめたのか。それとも俺のことなんてはじめから気付いてなくて、念のため外から中を伺ったのか。それが終わったのか。

 そうかもしれない。そうだ、この相手はきっと建物の新しい管理人だ。ようやくここの買い手がついて、鍵を持って見に来たのだ。来てみたら人の気配があったから念のため調べ、しかし誰も見つけられなかった。だからもう帰るのだ。

 ほら、いまにも車が見えるぞ。俺の後任が今日の仕事を終えて帰っていくだろう。それでこのバカ騒ぎは終わりだ。彼の車を見送りながら考えよう。次に彼が来るまでに、俺の名前を書いた表札をどこかに掲げておかなければ。ついでに次の住処を考えておかなければ。

 音は聞こえない。
 いつまで経っても車が見えてこない。
 また腹の中で時を数えるが、1分過ぎても2分過ぎても車は来ない。

 報告書だ。きっと車の中で報告書を書いているんだ。建物の外観良好とか。水道の復旧に時間がかかりそうだとか。

 5分過ぎる。車はまだ動かない。館内に足音も聞こえない。だが微かに音を捉えた。建物の外だろうか。何か作業をしているのはわかった。

 動くべきだろうか。

 相手が誰なのかはいまだにわからない。脅威かも無関係かも。だがどっちにしても相手が大きく動かないのなら、待っているべきじゃない。外の見張りは消えている。この隙にここを出るべきじゃないのか。

■3

 階段室のどこかで、ちかちかと光が瞬いた。

 ぞわりと寒気が走る。

 いま光ったのは照明じゃない。動体感知器だ。天井に張り付いて廊下を見張るセンサーだ。たしか再起動時にLEDが明滅して知らせる仕組みだったはずだ。この5年間動いたためしはない。電気が落とされているんだから当然だ。補助電源用のバッテリーはずいぶん前に外して売り払われている。いったいどうやって感知器をつけた?

 それより厄介なのは、この相手がまだ仕事中だということだ。感知器が再起動したということは、眠っていた警報設備が復旧したということ。1階の守衛室モニターで、建物の各部に備えられた監視カメラの画像を見ることができるようになったということだ。

 相手は俺がいることを知っている。俺がドローンから隠れおおせてたんで、建物内の警報装置に俺を引っかける手に出たのだ。やはりこいつはまずい。この建物の設備まで把握している。そして徹底的に俺を見つけ出そうとしている。

 逃げなければ。いやなんでさっき逃げなかったんだ。だがもう遅い。腹をくくらなければならない。やつがドローンをふたたび放つ前に、警報機をかいくぐって出なければ。

 階段踊り場に入ったのは不幸中の幸いだった。感知器や監視カメラは出入り口にしかついていない。各階の廊下と階段室前に感知器があり、カメラは各階エレベーターホールと1,2階の大階段。あとは1階の外周にある。

 予定通り2階のバルコニーから外に出よう。あそこは当時、喫煙スペースになっていた。喫煙者のプライバシーとかで出入り口のセキュリティも動体感知器も系統を分けられ、オフにされている。戸締りはいつも最後に管理人の手で。俺の手で閉めていた。

 カーテンをかぶって歩き出す。そろそろと階段を下りる。

 下の方から音が響いてくる。ドローンの飛行音と靴音だ。守衛室のあたりから響いてきて、それが大きくこだまし始める。エントランスホールの大階段に向かっているのだろう。こっちへ来るまではまだ少しある。

 4階の踊り場に差し掛かる。そっと天井を伺うと、踊り場を睨みつける動体感知器がちかちかと緑の瞬きを見せていた。このまま踊り場へ踏み込めばあの色が赤になる。それを避けるには、跳ぶしかない。

 階段手すりに両手をかけて全身を持ち上げる。4階への上り手すりと3階への下り手すりそれぞれに足をかけた。頭は上り階段のささらに押さえつけられ、股の間からは10数メートル下の1階床が見える。なぜか小学校の階段を思い出した。
 下り階段の踏面を見定める。着地場所にはあまりに狭い。子供のころならいざ知らず、この年であそこに上手いこと着地できるか。

 ドローンの音が大きくなった気がした。

 下り階段の3段目へめがけて跳ぶ。大した落差は無いが、ひどく長いこと落ちた気がした。トンっと音を立てたが、下で歩く相手ほどは大きくない。はずだ。胸を押さえて一呼吸し、そろりと下へ歩を進める。

 下の方からはがさごそと大きな音が聞こえる。
 エントランスホールの大階段は裏側に有象無象が貯めこんである。俺がそこに隠れているかもしれないとあらためているのか。一方、ドローンの音が近づいてきている気がする。自分は周辺を潰しながらドローンで館内を捜査するつもりか。容赦のないやつだ。

 途中、北側の踊り場に面した窓から下を伺うと車が止まっているのが見えた。ボンネットが開いてケーブルが接続され、建物へ伸びている。どうやら警備システムを動かすために車のバッテリーを使ったらしい。手慣れているように感じる。俺のような居座りを追い出す専門のやくざかもしれない。

 3階の踊り場を超えて飛び降り、2階の踊り場を見下ろす。少し錆の浮いた鉄扉がこちらに手招きしているかのようだった。
 ここの踊り場は動体感知器が切れている。そちらを警戒する必要はない。問題は、ドローンの方だ。

 踊り場に口を開けた2階廊下へにじり寄り、しゃがんでカーテン生地を被りなおす。ドローンの羽音が近い。2階の廊下をゆっくり動いているようだった。近づいてくるようでもあり、遠ざかるようでもある。

 行っても大丈夫なのか。バルコニーへの扉は廊下から見えてしまう。ドローンが廊下を飛んでいるとしたらこちらの姿が丸見えになる。あの音が遠ざかるまでは待つべきだ。しかしドローンを待っていたら下からやってくる相手と鉢合わせる危険がある。

 奴は東の守衛室から中央のエントランスホールへ動いた。階段下のガラクタを見終われば次はこっち、西側階段だ。そのまま中央階段を上がるルートもあるが、こいつは自分の足で館内をしらみつぶしに来そうな気がする。ここでうずくまっている時間が長いほど鉢合わせの危険は増すだろう。

 音が鳴り響いている。蝉の羽音のように大きな駆動音が。確かじゃないが、ドローンはすぐ近くにいそうだ。それほどに音が大きい。
 まさかと思い、頭のカーテン生地を引き下ろして顔を覆って伏せた。ドローンの音が強く広がったのはその直後だった。

 来た。いま俺の頭上にいる。

 ばれていないだろうか。今の俺はカーテン生地に包まれたごみのようにしか見えていないはずだ。ちょうど廊下脇に無造作に置かれた、誰も捨てる気のないごみだ。

 音は動かない。ばれているのか。やつはこのドローンの映像を今も確認しているだろうか。
 下からの音はまだ聞こえている。やつはガラクタ漁りを止めていないらしい。ばれてはいないようだ。
 しかしドローンは動かない。階段室が羽音で満ち満ちている。耳がどうにかなりそうだ。

 何を見ている。やつは作業中ならドローンは何かの指示で巡回し、録画している。ここで止まっているということは、こいつが俺ではない何かを見ているということだ。

 そっと顔の前の布をずらす。そっと、ゆっくりと、上から見とがめられないように。

 床が見える。先日磨いたばかりのフローリングがピカピカ光っている。その照り返しの中にドローンの姿がすこしだけ見えた。
 籠のようなもので組まれた円。その内側に機械が詰まっているようだ。ぱっと見、カメラのようなものは見えない。床への鏡像にそれが映らないなら、少なくとも俺のほうを見てはいない。動体感知器かバルコニーの鉄扉だ。やつはそれを見ている。

 逃げ道を潰された。バルコニーに出る場所はもうない。警備システムが見張っていない出入り口はここしかなかった。
 どうする。考えろ。あえて相手の前に出て行って、隙をついて逃げるか。
 いや、相手の体力もわからないのに逃げ足で勝負をかけるのは無茶だ。このまま顔を合わせず、なんとか施設を逃げ出す道を探すしかない。

 そうだ。あった。すぐそばに、一個だけ逃げ道が。

 行くしかない。こいつが夢中になっている今しか動くタイミングはないだろう。しくじったらその時こそ正面対決だ。

 カーテンをそっとはだけて見上げる。黒いメタルの網でプロペラとカメラを包んだそのドローンは、カメラを天井のセンサーに向けてじっとしていた。

 抜き足差し足忍び足。つま先立ちで踊り場を抜け、廊下へ踏み込む。ドローンはいまだに動かない。
 そっと歩け。そっと歩け。額に脂汗が浮き出てくる。思わずぬぐいそうになって腕をとめた。

 廊下を数歩で給湯室にたどりつく。扉のない開口部が廊下へ開け放たれている。素早くそこへ駆け込む。部屋は暗闇に沈んでいた。人ひとりがやっと立ち働ける狭い室内が廊下からの明かりでかろうじて見えている。

 棚や壁にこすれて音が出ないよう注意しながら奥へ。小さな部屋のどん詰まりには屈みこんでくぐれるほどの鉄扉があった。

 ゆっくりとレバーに手をかけ、じりじりと傾ける。扉のきしむ音も立てないよう気を付けながら引き開けると、室内よりもさらに暗い穴が現れた。ダストシュートだ。現役時代にも何回使ったかどうか。

 カビの臭いがする。このカーテンよりもずっと濃い。たまに風通しをしてはいるが密閉空間なんてこんなものか。だが今は気にしてられない。

 廊下を伺う。足音もドローンの音も遠い。行くなら今しかない。

 穴の中に足を突っ込んで壁を捉える。続けて尻を入れ、足と尻で体重を受けた。いけそうだ。
 カーテン生地を体に巻き付け、シュートの竪穴へ入り込む。ずるずると穴の中を下りながら、入ってきた鉄扉をそっと閉めた。

 穴の中の光が完全に途絶えた。わずかな隙間風が下から上へ吹き抜けていく。それほどの高さじゃない。滑り落ちても打撲くらいで済むだろう。だが今は音を立てるわけにはいかない。
 右足、左足、尻の順番にじりじりと滑っていく。ざりざりと壁をこする音が立つが、大きくはない。さすがに聞こえないだろう。

 汗が頬を伝ってあごから落ちる。すでに全身ずぶぬれだ。あとどれくらいで1階に、底にたどり着くのか。

 あと少し。あと少しのはずだ。そう念じながら滑り降りていく。

 かつんと、かかとが床を捉えた。まだ底がないと思っていた右足がその感触にびくりと震えた。
 むき出しの冷たいコンクリにそっと尻を乗せ、どっと息を吐いた。だがこれで終わりではない。次はここから出なくてはいけない。

 てさぐりで鉄扉を見つけ、鍵に至る。単純な掛け金は内側からでも開けられそうだった。よかった、記憶の通りだ。
 あとは相手が裏口のあたりにいないことを祈るしかない。ダストシュートの内壁に耳をつけるとかすかにドローンの羽音が聞こえる。まだ館内を巡っているらしい。足音までは聞こえなかった。

 だがここまでくれば仕方ない。館内を探り終えれば次は外を見回るだろう。この鉄扉にやつがたどり着くのにそれほどの時間はかからない。1階か2階に奴がいる今が逃げ時だ。上から俺を認めて追いかけだしても、そのころに俺は林道だ。林の中ならこっちに地の利がある。

 腹を決め、暗闇の掛け金をつまむ。錆に軋るそれを口中で叱りながら回しきる。そっと鉄扉に手を当てて押すと、意外な軽さで光が溢れた。

「―――おはようございます」

 軽いはずだ。その男はこちらに合わせて扉を引いていたのだ。

 男はずいぶん若く、想像していたよりずっと線が細かった。
 フレームの塗装がはげたARグラスをかけ、ほこりに汚れた濃紺の作業着に身を包んでいる。膝のあたりの汚れが特にひどい。階段下をあらためている時のものだろうか。
 首から蛍光イエローのストラップをぶら下げており、そこには有名な大学の名前と共に『委託調査員』と書かれていた。

■4

 応接室に落ち着くと青年は名刺を差し出してきた。若いのに腰が低いが、ちょっと固い雰囲気の男だった。

「突然お邪魔してしまって、申し訳ありませんでした」
「いや、こちらこそ……。なんというか、被害妄想が過ぎた」
「いえ。おひとりでお住まいなら当然です」

 名刺を眺めると、資格名がいくつか。それに東京の住所が並んでいる。

「東京からわざわざ?」
「はい。ちょっとややこしいんですが……」

 彼はそう言うと、俺の作った雑な椅子に腰かける。ちょっと目を輝かせて、座面に体重をかけたりゆすったりしながら。

「この建物を前の持ち主から買い取った会社がありまして。そこから大学が借りたそうです。短期間この地域の活動拠点にしたいということで。
 で、学生たちが手始めにイベントを開催することになりました。そのイベントにこの建物が使えるかどうかを調べるのがぼくの仕事です」
「……イベントと言うと、セミナーみたいな?」
「いいえ。クリスマスパーティーです」
「は?」

 丸太のテーブルへ3Dプロジェクターが置かれる。青年が手元の端末を手繰ると、麓の街から見上げたこの辺りの山々が映し出された。
 昼間の山塊がみるみるうちに暮れなずみ、夕日に染まっていく。オレンジ色の闇に染まり始める山の中で、ぽつりぽつりと原色の輝きが現れた。どうやら送電鉄塔が発光しているらしい。鉄塔が隣の鉄塔へ光をリレーするように明滅し、最後に白く四角いものが七色に輝いた。どうやらこの建物のようだった。

「ふもとの街と連携してイルミネーションをやるんだそうです。大学のサークルが外壁塗料に通電させて発光させるアートをやっているとかで」
「確かに……ここの外壁は使えるな。表側はカビも少ないから、綺麗に光るだろ。11月に掃除したばかりだし」
「人が入ったんですか?」
「いや、俺が」

 青年は首を傾げた。

「なんでまた。この大きさのものを一人だなんて」
「当時の掃除機を直して使ってる。時間はかかるけど、手間はそれほどでも。現役のころからずっとこうだし」
「こちらにお勤めだったんですか?」
「本社でへまをして以来、ここの住み込み掃除夫さ。で、ずっと掃除を続けてたらある日会社から連絡があってさ。倒産したから出てけって」
「しかし貴方は住み続けた、と」
「雇用関係と居住はべつだからな。意外と居心地いいんだぜここ。ご近所さんもいるし、バイトもあるし」

 笑って見せるが青年はつられず、少し顔をしかめた。

「会社は何も?」
「なんも。ここがもう少し繁華なところだったら力づくでも追い出してたろうが……。それからずっと、俺もここも整理されずにほっとかれて今日に至るってわけ」
「なんと、まぁ」
「無人と思ってた建物に人が住んでた感想、どうよ?」
「想像が現実になったなぁと。いつも浮浪者とか死体が出てきたらどうしようって考えてますから」
「ハハッ」

 しかしそんな生活ともこれでおさらばかもしれない。大学がどう使うかは知らないが、俺みたいなのが住み込んでいるところに若い男女を通わせるなんてしないだろう。この青年が報告を上げればすぐにでも大学の事務局が飛んでくるに違いない。

「―――さて、次の寝床を見つけないとな」
「なぜです? 住み続ければいいのでは?」
「若いやつらのサカリ場なんて住んでられない。俺は逃げるよ」
「失礼ですが、あてはあるんですか?」
「いくらでも」

 林業組合や猟師のおっちゃんたちなら快く受け入れてくれるだろう。ここの連中は森林管理用の四つ足を買う金も無いらしい。俺のような者でも居ないよりはいいはずだ。

 惜しくはある。この一人きりの御殿も悪くはなかった。どこの部屋でも寝放題。大声で歌っても誰も文句は言ってこない。水回りと夏冬の厳しさだけは大問題だが。
 しかしあの会社ならともかく、新しい持ち主にまで迷惑をかけたいとは思わない。出て行くのが世のため、人のためだ。

 青年は少しの間じっとこちらを見ていた。小さくうなずくと同時にプロジェクターを叩き、あっというまに仕事場を作り出した。

「ここの清掃をずっと続けられてたんですよね」
「未練がましくね」

 頷いて空中のキーを叩く。今日撮ったらしい写真や文章がどんどん積み上がっていく。

「貴方はここの住人で、大学は貴方がいることを確認せずにここを借りた。貸した会社にも大学にも、貴方に対しての責任があるはずです」
「俺は面倒ごとを起こすつもりは……」
「貴方は理想的な管理人だ。この建物を知り尽くしている。少なくとも次のイベントで、貴方は助けになる」

 青年の傍らに青い盾が浮かぶと、そいつは出来上がった書類をスキャンした。いくつかの文字を入れ替えたそれが手元に戻ると、彼はそれを一瞥してから俺に差し出した。

「大学に親しくさせてもらってる方がいるんです。その方伝いで貴方をここの管理人に推薦したいんですが、いかがでしょう」

 報告書の概要だった。使用目的とそれに合致する外壁の状態。室内設備と通線状況、そしてそれらを維持していた俺のことが書かれている。
 最後には、俺から施設の仕様とメンテナンスについて引継ぎを受けるか、俺に引き続き管理を依頼することを提案すると締めくくられていた。

「……役に立っちまったか」
「は」
「いんや。なんでも。―――ぜひ頼むよ。近所のじいさんたちからお小遣いもらうには、ちょっと厳しい歳になってきたしな」

■エピローグ

 数日後、大学から電気と暖房器具と学生たちが到着した。

 施設に一人で起居していた彼は、もともとそういう業務だったのだろう。てきぱきと若い子たちを案内した。
 尾根一つ向こうの集落からも住民が駆け付け、そこに加わった。彼の声かけによるものらしい。

 翌日の昼、建物全体が白く光り輝いた。彼はサークルの学生たちに交じってモップを持ち、最後の汚れを壁からこそぎ落とす。
 守衛室からの通信に応え、窓枠の配線を見直すとガラスまでもが壁と一緒に発光を始めた。
 合図とともに彼も学生たちもバルコニーから消えると、一枚のキャンバスと化したファサードの上で色が波打った。問題なさそうだ。

 バルコニーの手摺に寄りかかる彼と目が合った。学生たちとなにやら相談していた彼が、にっと笑ってモップを掲げた。

 【終】

■あとがき


 お祭りって参加してみると楽しいですよね。

 今年も桃の字さんの声かけへ乗っからせていただきました。お題はクリスマス×建物と考えた結果、廃墟居住者脱出サスペンスに化けました。
みなさんも煙突に潜るときは汚れてもいい格好で挑みましょう。

 明日のご担当は素浪汰狩人=サン! 乞うご期待!


サポートなど頂いた日には画面の前で五体投地いたします。