京大にいたる病

2023年3月10日12時06分、俺は少なくとも向こう1年は京大生になれない事を知った、これで3回目になる。これで3回目になる、と言おうと思うと、きちんと数え上げないと正確な答えが出せないようになってしまった。ここ3年は、来年には京大生としてモラトリアムを謳歌しているんだろうな、と思いながら生きてきたが、またもや裏切られたことになり、帰納的にこれからも裏切られ続けることになると思われる。裏切られたというものの、誰が裏切ったわけでもなく、恨むべきは己の怠惰さのみであるのだが。
春というものは、思い描いてきた理想と現実のギャップに耐えかね、悪魔に心臓を鷲掴みにされたまま日常生活を送らねばならぬ季節なのであるが、俺の心に太い毛が生えたのか、あるいは理想に輪郭を持たせる事を恐れる程己に対して疲弊してしまったのかはわからないが、悪魔は去年よりも優しく、ゆっくりと俺を潰した。
この期間は何をやっても無駄である。友人に会って憩いを得ようと企んでも、化け物に成り果ててしまった自分と彼らとの距離は遠く、近づこうと走っても走っても走っても、気づけば逆走していたりする。そうだ文豪の名作でも読もう、今なら何かを吸収できるかもしれない、という煩悩が浮かんでは、その重い腰は浮き上がらない、あるいは上がったとしても、なんだか難しくて諦めてしまうに違いない。ここらで、俺は怠惰なせいで3度も京大に落とされたんだという事実をまた思い出してしまうことになる、下手な考えは起こすものではない。
Twitter(X)に日々研鑽を積む者として、合格発表後のタイムラインについて語らざるを得ないことは、奈良の小僧のネタバレよりも明らかである。3月10日正午を境目に、勝者と敗者は残酷なまでに二分されることになる。合格に狂乱する人々、安堵する強者達、合格偽装をする愚者、これらでタイムラインは溢れ、敗者達は静かに下唇を噛むことしかできない。我々は、ここで合格者を妬んだり羨んでも虚しいだけだということを痛いほど知っているので、口先では彼らを賞賛するが、昨日までは全く同等の立場だった人間とこれまで明確に切り離されるのはやはり堪えるものがある。
大学垢ってなんだ、京大総人新B1ってなんだ、余りにも格好が良すぎるではないか、模擬試験では俺の方ができていたじゃないか、そもそもあの数学はなんだ、京都大学の威厳はどこにいった、こんなのあんまりだ、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、というのが愚かな敗北者の本音である。
この状況で我々に残された道は正当化しかない。ここで降りる人間ならば、院試や編入、あるいはこれからの人生でこれを種として大きな花を咲かせられればいい、と考える。愚かにもまた荒波にダイブする覚悟を決めた人間は、本来行きたかった学部を目指せるだとか、あるいはその道で邂逅した人を、あたかも一生の友人として仕立て上げることで正当化を測るわけだが、これはなんとも虚しいような気がする。どう考えても、受かっていた方が気持ちいいに決まっている。
俺は気持ちよくなりたい。気持ちいいと感じることが好きだからだ。美味しい物を食べるのが好きだし、音楽を聴いて気持ちよくなることが好き。歌うのもまあまあ好きだ。セックスだって最高に好きだ、セックスと言えば気持ちいいし、気持ちいいと言えばセックスだ。
そういえば俺は数学の過去問演習で5完したことがある、あれはセックスより全然気持ちよかったな、セット演習に限らず、解けなさそうな問題に向き合って、解法が降りてきたら最高に気持ちいいという事を俺は知っている。5完。これが本試験だったらどれだけ気持ちいいんだろう、と常々妄想してきた。俺は今年5完していない。もし今年受かっていたら、本試験で5完した経験なしに人生を終えてしまうことになる。でも落ちた今は違う。5完する可能性がある。所謂これが正当化というやつだ。あるいはその上で合格してみたらどうだろう。2回落ちた後の合格よりも、3回落ちた後の合格の方が気持ちいいに決まってる、俺はなんて幸福なんだ。それじゃあ帰納的に4回落ちたほうがより気持ちいいんじゃないか?と邪推した諸君は本当に黙ってほしい、いいんだ、俺がこれでいいと思えるならそれでいいんだ、構ってくれるな。
この1年は、「三度目の正直」と「二度あることは三度ある」の間で単振動しながら生活してきたわけであるが、今やもうその域を超えてしまった。でも、そんなことは関係がない、関係がないんだ。3年間恋をしてきた相手に3回振られたところで、諦められるわけがない。合理的に考えたら馬鹿なことをしているのは俺が1番分かっている。でも理屈じゃない、これは恋だから、病だから、俺は受かるまで京大受験を辞めない。嗚呼、京都大学、京都大学、京都大学、京都大学。

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