親知らずを抜いた過去の自分へ。

 20代男性でそれまで大きなご病気のない方が、持続する発熱のため病院を受診した。
 1週間以上持続する発熱の原因として「感染性心内膜炎」という病気が挙げられるのは、国家試験でも必須の知識であり、病院でもしばしばそのような患者さんを診ることがある。

 体に侵入した細菌が、心臓の弁に付着して、弁を破壊してしまい手術が必要となる患者さんもいる。この20代の若い患者さんは、何とか緊急手術にはならないで済みそうであるが、いずれは心臓の外科手術が必要になるとのことだった。

 感染性心内膜炎の原因として、う歯(虫歯)の治療によって、細菌が体内に入り込むことがある。いまのところ、この若い患者さんも“う歯がある”こと、以外に明確な感染性心内膜炎の原因は同定されていない。内科医師の私も、執刀する予定の外科医も、「虫歯のせいで心臓の手術が必要になるだなんて」とわが身を案じてしまう。人生は何があるかわからない。

 思えばまだ医大生だった20代前半のころ。親知らずのために歯並びが崩れ始め、時間ができたら治療をしようと考えていた。ちょうど夏休みで実家に帰省中、子供のころに受診したことのあった歯科医院で親知らずを抜いてもらうことにした。医院で、「1日で何本まで抜けますか?」と聞くと、「そりゃ、いっぺんに全部抜くことだってできるよ」と言われた。ちょうど、2-3日で大学に戻ろうかと思っていたので、「なら、全部(上下2本ずつ)抜いてください」と願いした。親知らずを抜くことが、歯科医師が物理的に力で引っこ抜くような手技であったことにも驚きつつ、こちらの希望をかなえてくれ、なんとか1日に4本抜いてもらった。帰るときに受付で、「抗生物質はいりますか?」とまだ知識のなかった自分は「別に要りません」と答えた。
 
 大変だったのはその夜からで、一晩中口の中から疼痛とじわじわと持続する出血に苦しんだ。さらに1週間近く発熱してしまい、結局2-3日で大学に戻るどころか、大幅に遅れて、実家で療養することとなった。このことを思い出して、たまに「親知らずはいっぺんに4本抜かないほうがいいよ」とか、「抗生剤をもらわずに発熱に苦しんだ」とか人と話すことがある。

 いま、ただ虫歯の治療を終えていないというだけで、心臓の手術が必要となった患者さんを目の前にして、改めて親知らずをいっぺんに抜いて数日間発熱した自分が同じ状況になっていてもおかしくなかったということを実感させられる。おそらく、あの時にそのまま心臓の手術をしていたら、少なくとも今の生活とは別の人生となっていただろう。

 人生はいつ何があるかはわからない。ただできることは、医師としての知識・経験をわが子や親しい人と共有はしておきたい。「親知らずはいっぺんに4本抜くと、抜いた後がしんどいよ」、「親知らずを抜いた後、抗生剤は一応飲んでおけ」と。

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