感情の蓋のはなし

感情に蓋をしやすいタイプです。
でもこれDIDにはすごく多いっていうか深刻化したものがDIDだっていうのを
今日検索をかけてようやく自分の状態がわかった気がしましたので、メモをします。

私は、人に意見ができません。
理由は簡単で、怖いんですね。
自分の意見が受け入れられるわけがない、という思想に至る習慣が家庭環境として存在します。特殊なので、万人には通用しない思想です。
なので、意見を考えないようにしています。
時に残酷な一言を人に与えてしまうときもあります。
「死にたい」という人に「死にたいなら死んだらいい」と肯定してしまうところがある、ということです。

最近、愛鳥と愛犬が死にました。とても悲しいことだと思います。でも、泣くことはいけないので、泣けませんでした。
誰かにサンドバッグにされている気がします。とても苦しいことだと思います。でも、文句を言うのはいけないので、言いませんでした。
私はおそらくこの文面を読んでいる人が感じている「大変そうだね」という気持ち以上に、自分のことは他人事なのです。今の自分に「大変だね」という一言が出てくるくらいなので。
食べ物の好き嫌いがありません、好き嫌いを言うと鼻血が出るまで殴られた時代に学んだのです。納豆が嫌いでした、キノコ類が嫌いでした、なすびが嫌いでした、でも、もう、どれを食べても、同じ味です。「おいしい」と言えます。
愛想よく笑うことができます。「楽しいね」と言えます。泣いている人には「悲しいね」と泣くことができます。

でもそれは、そうしなくては、いけないからです。


蓋をする、ということは感情から目をそらすということだそうです。
ただこれがなかなかに厄介で、例えば悲しい!という感情を塞ぐと同時に、嬉しい!というプラスの感情も蓋がされます。
都合よくできていない人間のジレンマともいえるかもしれません。
いろんな物事への+と-を塞いでいきます、職場のこと、家族のこと、恋愛のこと、友情のこと、全て。
そうすると残ったのは、生と死になっていきます。
死ぬことに蓋をすると生きることにも蓋をしてしまうので、結果、恐怖というものもなくなるのですが、希望もなくなってしまう。
生きた心地がしない、はピンチの時に用いるセリフですが、今がまさにそうなのかも。生きている心地がありません。
会社を休んで、一日半ですが、泣きながら帰ってしまったようで上司に合わせる顔もありません。
でも、誰にも心配をさせてしまうのが申し訳ないので、相談もできません。
両親には、恐怖しか抱けません。

普通になりたい、と思います。遠い道のりです。
普通がわからないときが圧倒的に多いです。自分は愛されている人間であるという身分であっても、「他人事」なのです。

泣きたいなら泣けばいいし、やりたくないならやらねばいい。

誰もが抱く私への疑念だと思います。ごもっともです。でもそれは、健常者(あなたたち)だからできることなのかもしれません。
その思想は、私に『じゃあ代わりに私の両親をいなかったことにしてくれますか?あなたが私をずっと認めてくれますか?』という極論を要求されたという認識だと思ってください。

蓋をしてはいけないのです。でも蓋をしないと正気でもいれないのです。もう、正気ではないのですけれど。


どうすればよかったんでしょうか、生まれてこなければよかったのか。
どうして私は、わがままを言えないんでしょう、どうして愛されなかったんでしょう、どうして認めてもらえないんでしょう、どうして暴力をふるわれてきたんでしょう、どうして謝ってもらえないんでしょう、どうして嘘をつかれていたんでしょう、どうして、どうして?

ただ、抱きしめてほしかったんです。愛してほしかった。手を握って、寄り添って、優しくしてもらいたかった。応援してほしかった、喜んでほしかった、頭をなでてほしかった。優しく抱いてほしかった、生まれてきてよかったと、思ってもらいたかった。

私から奪ったものを返してほしかった。


どうして、今日まで生きてしまったんでしょう。

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