ラフマニノフと赤い河
彼女がもう一つの世界へと飛び立ったのはもう、かれこれ10年以上も前のこと。スコンと抜けるような青空の広がる朝、彼女は自らの意思で冷たいアスファルトの海に飛び込んだ。
ふと、僕が目を離した隙のことだった。
前夜の彼女は眠っている間も何かに魘されながら時折奇声を発し、天井に向かって大きな拳を上げたかと思うといきなり布団や自分の太腿を叩き、その衝撃で飛び起きては荒れた呼吸を整えながら再び眠りに就く…、それを繰り返していた。
夢見の悪い時は温かいココア、僕は彼女からそう教わっていたのでその通りに何度も真夜中にココアを入れる為に、ベッドルームと台所を往復した。
彼女がようやく寝入ったのはかれこれ朝の5時を少し回った頃だったが、それでも時折夢の中で何かに追われているのではないかと言うように唸り声を上げていた。
その横で、僕も不思議な夢を見た。
演奏会場は海の上。その夢は珍しく赤身を帯びたセピア色のモノクロームで、僕も彼女も古い時代に生きた誰かのように涸れた笑顔を覗かせる。ステージに演奏者はいないのに、まるで自動演機器をセットされたピアノのように勝手にピアノから音が鳴り渡る。
客席では観客たちが、誰もいないはずの椅子に誰かがいるようにそこに、眼差しを集中させている。椅子が時々コト、コト…と動いて、まるでそこに生きた人が座って演奏しているように見えて、それがとても不気味だ。
僕と彼女は最後の晩餐のように瞳を潤ませながら、互いにかなしい笑みを浮かべて見つめ合う。だけど何がそんなに悲しいのか分からない。
でも夢の中の設定では、数時間後にこの星に隕石が衝突するかもしれない…、それをもはや避けることが出来ないと言う事実を突き付けられ、この星に生きるそれぞれの人々が最後の夜に一番したいことを楽しんでいる…と言う筋書き。
時系列は支離滅裂だが、その数分間の夢は感覚的にはとても長い時間を過ごしたような印象で、僕は彼女と大好きなラフマニノフを聴いていた。
そう、二人共に大好きな2楽章の途中辺り。
だがその丁度楽曲の真ん中で彼女がすっと席を立って会場を出たまま、しばらく戻って来ない。きっと何かを我慢出来ない身体上の問題が起きて中座したのだろうと思い、数分間待っていたが、長いこと彼女が戻って来ないので僕も席を立って会場を出ようとすると、そこは海だった。
吸い込まれるような静かな波が立ち、思わずその中へ飛び込んでしまいたい衝動に駆られた。もしかして彼女はこの海の中へと、翌朝を待ちきれずに先に逝ってしまったのではないか…と思うと、僕も後を追わなければと気持ちが切迫して来たところで目が覚めた。
ふとベッドの横の人一人分のスペースが目に入り、さっきまでの夢の内容とが脳の中で混線し、慌てて少し開いた窓まで思わず走って行った。
彼女はその窓から数十メートル下に倒れていた…。
夢の中で聴いていたラフマニノフの続きがリアルの寝室でもかすかに流れていて、彼女が寝起きにCDのスイッチを入れたのかもしれないと僕は思った。
赤い河が目に入ったが、不思議と僕の心に波は立たなかった。それよりも僕の鼓膜が、この世界のすべての音を遮断しようとしていた。
完全に僕は混乱している。だが、顔はまるで今完成したばかりの人形みたいに笑っている。
ビルの30階の僕らのオアシスに、もう直ぐ警察が来るだろう。それまでの時間、せめて僕は彼女が大好きだったこのラフマニノフを聴けるところまで聴いていたいと思い、静かに新聞を広げると彼女の飲みかけのコーヒーを口に少しだけ含み、微かな彼女の体臭を嗅いでいる。
僕の中に流れる二つの世界、二つの時間。
共通していたのはどちらも、間もなく終焉を迎える…と言うことだ。
窓の下に拡がる彼女が作った赤い河をもう一度、僕は心に焼き付けておきたいと思った。赤い河は細く暖かく、真冬の空へと湯気を立てているようにも見える。そして段々と音量を上げて行くラフマニノフと共に、赤い河が僕のスピリットと少しずつ溶け合うように夢の中の、あの幻の海へと流れ出ようとしている…。
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