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恐れない理由

私は人の誤解というものを全く恐れなくなった。
何故かという理由を一つだけ挙げるとすれば、ある事をきっかけに性格が大きく変化したから…とでも言えばいいだろうか。

誤解を恐れる人の特徴として、誤解をされる事=人格否定と思い込む傾向が強く見られる。
自分が社会や知人の輪に受け入れられず孤立するのではないか…という恐れが他者から誤解される事への恐怖感と密接にリンクしているとすれば、それを解消する考え方として、
自分の考えを相手が理解しない事と自分の人生とは何の関係もない…と、一度全てを俯瞰してみると良いと私は思っている。

同じ言語を話す人たち、でも生活習慣も違えば当然遺伝子も持って生まれた能力も性格も異なるわけで、そういう人たちに完全な理解を得ようと思うこと自体がおそらく間違いなのだ。
その時々のコンディションによっても一個の言葉の捉え方、捉えられ方は大きく異なるわけで、まして赤の他人に自分と同じように思いなさい…等と期待する方が間違っている。
違って当たり前。

相手の誤解が自分の生活圏に大きく影響する場合にのみ、それは違うんですよ…と訂正を訴えればよいわけで、それ以外…、
つまり相手がどう此方の言葉を受け取ろうが自分の人生とは何の関わりも持たない状況を維持出来る場合であれば、それは一つの日常のプロセスとして放置する。
それが私の考え方。

なので私は、収入や自分の人生に影響を及ぼさない、ある種自分とは無関係なところでの相手の誤解には一切関知しないし興味もない。



そう言えばある人に、私の感情について「変わってる、理解出来ない。」と言われた。
そう… いかなる生命でも双方が共通言語を持たない間柄での意識の共感は難しく、例えば私が石や鉱物に近い感情を保有していた場合には、その周囲に何千人の人だかりが出来ようと誰も私の感情を理解出来ないだろう。
逆も又真なり。
石は相手(人間側)の意識を出来得る限り共有しようと努めるけれど、おそらく共感には至らない。

これが宇宙人であれば、もっと分かりやすいかもしれない。
素性の分からない相手を人は「怖い」と感じて警戒し、やがては批難し始める。たかだかその程度のことで私は動じないし、うろたえない。

先ず何より相手がヒトか、生き物か植物か、それ以外か…という認識をして、その相手の感情の中枢を探ってみる。
そこに共感も理解も求めない。但し此方に敵意が無いことだけは相手に伝えるし、逆に相手が此方に敵意を持っていないかどうかだけを先ず確認する。

確かに私は変わった生き物かもしれない。
それもその筈。
私は未来から此方側に引き返して、現世で未達成だった課題をやり直す為にここに生まれ落ちたのだから。


#コラム #感情教育




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