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私の中のジプシー

勿論トランシルヴァニアにも行った事がないし、スペインの路上で演奏なんてした事もない。なのに私の中になぜか放浪の記憶が深く根付いているのはなぜなのだろうか…と、時々考える。

荒涼とした砂丘を剥き出しの楽器を担いで、粛々と歩き続ける記憶。家もなく金もなく、なによりどこの誰か…と言う戸籍を持たない放浪の民をいつかの自分が生きていたと思うだけで、せつなくやるせなくなり涙が溢れ出す。

冷たい風と氷が溶け落ちる前に小枝で固まったまま日付けを越えて行く時の、独特の湿度の匂いが鼻先にかすかにこびり付いて離れないのは、一体何故なんだろうか…。

木から木を渡り歩くのは、ロマに市民権が与えられていなかったからだ。木の上に簡略式のハンモックを吊るしてそこを一夜の休息場所に決めて行く時、まるで野生動物にでもなったような深い悲しみが全身を覆って行く。
私は名もないリスのように生きて、世界を威嚇しながら楽器を片手にここまで生き延びて来た…と言う、自分ではない誰かの記憶が時々私全体を覆い尽くす。

もう涙も涸れ果てて感情的な悲しみを通り越した、もっと別の感情が全身を襲う時、人はそれを時折笑顔で表現する。
そう、それは「笑うしかない」と言う時のあれだ。脱力と無気力の末に生まれる「笑み」はおそらく、世界で最も悲しい微笑みだ。


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その時代の私が一生の中でどれだけの音楽を演奏して来たのか、生まれ変わった私にはもう思い出せないけれど、その日その小屋で見た人々のやさぐれた声や寒さと渇きを癒す為に飲んだウォッカのキツい匂いや、或いは一夜の寝床を確保する為に身を売りながら生きている女の長いスカートの裾から立ち上って来る体温や…、
そんな日々の生活のありふれた何かが断続的にフラッシュバックして行く。

いきなり無性に歌いたくなり、考えた挙げ句私は歌声喫茶を目指す。勿論異国の古い民謡等がこの国の言葉で歌われる為の小さなスペースで、下手だけどやたら歌が好きな素人歌手と同席しなければならない煩わしさはあるけれど、それでもいい…、歌に触れたかった。
酒で渇きを癒したいと、魂が叫び続けているからね。

ロシア民謡やらトルコ民謡やら、雑多に店内をがさつな歌が流れて行く。どうせ私も今夜はやさぐれてがさつな飲み方しか出来ないんだから、彼らとお相子でとことん行儀悪い夜を送ってやろうと思った。

どこのバーに行っても大抵カマンベールかサラミぐらいは出してくれるが、今夜は缶詰が2種類しかないんだよ…とオーナーがやたら不機嫌(笑)。
ないものはないんだし仕方ないよって言いながら、私ももともとの不機嫌に輪をかけて余計に不機嫌になったところに一気に流し込んだウォッカが効き過ぎて、終電を意識しながらもかなり悪酔いしてしまったようだ。


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22:30を過ぎた頃からさっきまでのダミ声の歌を一掃するように、店内にTaraf De Haidouksの動画が流れ始めた。
彼らはルーマニアで結成されたロマの大所帯バンドで、トニー・ガトリュフ監督の映画『ラッチョ・ドローム』で一躍その名を世界に知らしめた。

ジプシー・ヴァイオリンのみならず、アコーデオンやサントゥール等…と言う多種類の民族楽器がひしめき合って、今はもうロマでも何でもない私の心をロマの境地へと引き摺り込んで行く。
一瞬救われながらも、その一瞬後に私は別の自分の記憶を再び復活させ、目からボロボロ涙を流して泣き始めた。

こうなったら泣きたいだけ泣くしかない。それもこれも今宵の音楽と酒のせいだと、こんな夜ならばそんな言い訳も許されるだろう。

私は腕時計を外してテーブルの上に置いた。そして、もう終電のことなど考えずに今夜はこの涙が乾くまで徹底的に呑み倒してやろうと、迷うことなく2本目のボトルを注文した。


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