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飛び出せ!佐久間探検隊

第二十三回 現存する日本最古の木造灯台はクラウドファンディングの産物だった!


ドモ。佐久間探検隊の隊長、佐久間ディックです。

クラウドファンディング、最近流行ってますねぇ。
かく言う私も某クラウドファンディングに出資してます。
しかしクラウドファンディングって、かなり昔からあるんですよ。
昔は公共工事と言う概念がありませんでした。
だから工事の代金は、基本的に受益者が負担。
一商店が自分の店の為に作った、淀屋橋のように。
しかし個人では、お金が足りない場合が。
そういう場合、お金を出し合ったりしてたそうで。
今のクラウドファンディングですね。
日本最古の木造灯台も、そうして建築されたとか。
現地へ確かめに行ってきました。
スタート地点は南海本線堺駅東口です。

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駅前を右折して横断歩道を渡り、右折する。
横断歩道の先にあるのは、船着き場。

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左を流れるのは竪川。
旧堺市内の堀と旧堺港を結ぶ川である。

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高架下の手前に橋があるので、左折する。

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左折した橋は、欄干がピンク色。
一体どーゆーセンスなんだろう?

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橋の東側に、変なコスプレのおじさんが!

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おじさんはこちらに背を向け、川を眺めている。
背中には愁いを帯びた男の哀愁が。

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と、まぁボケはいい加減にしておいて、
この像は南蛮人の像
1987年に堺駅の高架化事業が完成し、
新駅と旧駅の広場(堺駅南口)を結ぶ歩道として、この南蛮橋が掛けられた。
その時に市の道路計画課の職員さんが、話題性を持たせようと像を考案。
しかし像を作る予算は下りなかった。
そこで像を橋の欄干の一部とし、南海電鉄に橋の建設費を負担してもらい、
市が完成後は管理する事となった。
おじさんが両手を橋の欄干に付けているのは、その為である。
ちなみに像の制作者であるが、当時アルバイトしてた芸大の学生だそうだ。
それ以上の詳しい話は不明である。

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おじさんが見ている東側にも、橋が掛かっている。
橋の手前に、何やら煉瓦造りの構造物が。

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北側の構造物。
綺麗に積まれた煉瓦積みである。
外観から相当年季が入っている事が、伺える。

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南側の構造物。
こちらも北側同様、綺麗に積まれている。
実はこの2つの構造物は、南海本線の橋脚だった物である。
現在の南海本線は1985年に高架化されたものだが、
それまでは今の堺駅南口に地上駅があった。
その駅は1955年にそれまであった龍神駅と堺駅を統合して出来た。
統合前は曲線があった為、駅の統合と同時に線路も今の場所へ移設された。
その1955年以前の線路の橋脚なのである。

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寄り道ばかりしてたら埒があかないので、先を急ぐ事に。
橋を渡った道路を右折する。

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右折した先は、鄙びた小道。
堺駅前からそんなに離れてないのに、人通りは雲泥の差。

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空は晴れ晴れ、良い天気。
むしろ少し暑さを感じるほど。

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この通りには、二つの石碑が。
こちらは天誅組義士上陸遺蹟碑。
早い話、幕末の攘夷派の組織である。
1863年8月14日、京を出発して淀川から16日にこの地に上陸し、
大和へ向かって17日に五條代官所を襲撃。
暴徒として幕府から追われ、9月24日に壊滅した。

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こちらは堺事件の碑。
1868年3月8日にフランス海軍の水兵と、
堺を警備していた土佐藩士との間で銃撃戦となり、
水兵11名が死亡した事件。

フランス側の要求によって土佐藩士が処刑される事となり、
3月16日に妙国寺で刑が執行された。
切腹させられた藩士達は自らの腸を掴みだし、水兵達を大喝した。
水兵の死亡者数と同じ11名が切腹した後、フランス側の要請で中止された。
残り9名は土佐に戻され、流罪となった。

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近くには、二つの石碑の案内板がある。
とは言え観光客らしき人物は、探検隊だけであった。

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国道26号線の下を潜る。
十分な高さはあるのだが、圧迫感が探検隊を襲う。

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傍にある旧堺燈台の案内看板。
あと840メートルあるらしい。

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国道26号線を潜ると現れる、巨大な水門。
竪川水門と呼ばれる水門である。
津波が発生した時、旧市内に迄被害が及ばないようにする為の門である。
大きさは幅12メートル高さ7.6メートル2門。
一般電源・自家発電・手動(一部エンジン)の3つの作動方法を持ち、
所要時間は通常時の閉門と開門は30分、緊急時の急降下(閉門のみ)は6分。
平成11年に改築が完成した。

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急な上り坂を上る。
結構角度があるので、正直キツい。

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坂を上り切ると、旧堺港の風景が!

港内では二つの銅像が向かい合ってる。

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手前の銅像は、呂宋助左衛門の銅像。
本名を納屋助左衛門と言い、安土桃山時代の堺の商人
1594年に時の天下人である豊臣秀吉に宝物を献上し、
保護を得て日本屈指の豪商となった。
呂宋の名はフィリピンのルソン島が由来となってる。
あまりにも栄華を極めた為、
1598年に石田三成の讒言により財産没収となるが、
事前に邸宅や財産を大安寺に寄進してルソンへ脱出した。
堺の名を全国に知らしめた城山三郎先生原作の大河ドラマ、
「黄金の日々」の主人公。
ドラマでは六代目市川染五郎(現:二代目松本白鸚)さんが演じていた。

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こちらは龍女神像。
1903年、第5回内国勧業博覧会が大浜公園で開催された際、
大浜水族館前に設置されたもの
終了後は水族館と共に堺市に寄贈され、
乙姫さん」の愛称で親しまれて来た。
しかし水族館が廃業し解体された際、同時に撤去されてしまった。
2000年7月、市制110周年記念事業として、
現在の地である北波止突堤の付け根に復元建設された。

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龍女神像はブロンズ製で高さ10メートル。
像の台座は高さ16メートルの石張り。
呂宋助左衛門像と向かい合うように立ってるけど、

これでは呂宋助左衛門が乙姫さんのストーカーのように思えるのだが。

ご丁寧に呂宋助左衛門は望遠鏡まで持ってるし。

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気を取り直して水辺まで降りてみる。
浜風が心地良い。

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旧堺港の周辺は、遊歩道となっている。
目的地の旧堺燈台まで、辿り着けるようになっている。
探検隊は歩を進めた。

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旧堺港の一部は、板張りのボードウォークとなっている。
まるでアメリカ西海岸によくある風景だ。
行った事ないけど。

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ボードウォークを過ぎると、小洒落た石畳の道が続く。
どこからかビーチ・ボーイズの曲が聴こえてきそうな風景である。

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西海岸気分の遊歩道は続く。
奥にある高速道路は…見なかった事にしよう。

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ここで遊歩道は途切れそう…だけど続いている。
ちょっと狭いので注意する必要はあるが。

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角を曲がると風景の雰囲気が変わる。
高速道路がメインになり、工場も姿を現す。
聴こえて来る音楽も、上田正樹の「悲しい色やね」に変わったみたいだ。

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高速道路は阪神高速4号湾岸線
ここの区間は1987年3月に三宝-出島間の開通によって誕生した。
この区間は海上を走行する為、冬などは季節風が厳しい
オートバイではよく風に煽られる、要注意区間だ。

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高速道路の下にある歌碑は、詩人である伊東静雄の歌碑。
伊東は1906年長崎県諫早生まれ
京都帝国大学文学部国文科卒業後、公務員となった。
その傍ら1935年に処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」を発行。
浪漫派の詩人として一気に評価を高めた。
1947年第四詩集「反響」を発行した後、1953年に肺結核のため死去した。

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歌碑をあとにしばらく歩くと、目的の旧堺燈台が姿を現す。

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旧堺燈台の説明板。
旧堺港に初めて燈台が建てられたのは1689年。
市中の商人の寄付による、木犀燈台であった。
1704年の大和川付け替え以後、
旧堺港は土砂の流入などにより何度も修築を繰り返した。

燈台も規模を大きくしながら移転を繰り返していた。
明治初期に旧堺港の改修事業により、新しい燈台を設置する必要があった。
そこで後に堺区長も務めた高山保次郎ら堺の有力者が資金を出し合い、
堺県からの補助も受けて1877年に旧堺燈台は完成した。
有力者限定とはいえ、協力して資金を出し合ったという点は
今のクラウドファンディングと何ら変わりはない。

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旧堺燈台の高さは11.3メートル。
建設にはイギリス人技師の他、地元堺の大工や石工の協力もあった。
1968年1月29日まで現役の灯台として使用されていたが、
長い歴史を持つ役目を終えた。
1972年7月12日に国の史跡に指定された。

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大きなランプが目立つ旧堺燈台の上部。
当初の光源は石油ランプで、約18キロメートル先まで光が届いた。

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大きな窓が印象的な、旧堺燈台の中部。
窓単体ではまるで洋館のようだ。

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お洒落な飾りの庇を持つ出入り口が印象的な、旧堺燈台の下部。
燈台という環境故か、土台はかなりしっかりした石積み。

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現役の灯台としての使命は終えたが、
旧堺港のシンボルとしての役目は現役である。
公衆電話ボックスや時計台のモチーフとして、用いられている程。
また市民の憩いの場ともなっている。

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旧堺燈台に辿り着いた探検隊が思ったのは、

「しっかりとしたクラウドファンディングなら、後世までキチンと残る」

ということ。
今のクラウドファンディングは、玉石混合の時代だ。
我々一人一人がしっかりと内容を精査してから、出資する必要がある。
そうやって見定められたクラウドファンディングは、
必ずや人々を幸せにするだろう。
探検隊はそう思いながら、旧堺燈台をあとにした。

「現存する日本最古の木造灯台はクラウドファンディングの産物だった!」

おわり。


(公社)堺観光コンベンション協会公式サイトの旧堺燈台のページはこちら

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