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飛び出せ!佐久間探検隊
第五回 西成区津守に大阪市電は生きていた!
ドモ 佐久間探検隊の隊長、佐久間ディックです。
大阪で路面電車と言えば、「阪堺電車」こと阪堺電気軌道。
今日も元気に、大阪の街を走っています。
しかし、半世紀ほど前まで大阪には、もう一つの路面電車がありました。
いえ、かつては大大阪の交通網の主役だったんです。
それは大阪市電。
大阪市交通局直営の、日本で初めての市営電車でした。
日本最古の京都の路面電車は、開業時私鉄だったので。
かつての主役も自動車に押され、1970年に全廃となりました、
広島や鹿児島の地へ渡った車両も、現在現役なのは一両のみです。
※広島電鉄900形913号 元大阪市電2600形2638号
しかし西成区津守に、
今日でも現役で使用されている施設があると聞きました。
本日はそちらへ探検してみます。
スタートは南海汐見橋線(高野線)の津守駅。
大都会の中だという事を忘れるほど、ローカルな路線の駅です。
駅から出て、南へ向かいます。
停まってるクルマは、公園の前の路上駐車。
最初の踏切を渡ります。
架線柱が古めかしいですね。
踏切を渡ったところ。
商店街がはじまりました。
最初の交差点。
信号の先はアーケードですね。
良い雰囲気のようです。
交差点で右へ。
跨線橋がありますね。
そのまま進んで行きます。
それにしても、年季の入った跨線橋です。
勾配も心なしか緩いような。
???
なんか跨線橋の先に、変なものが。
これです。
実はこれ、架線柱を切った跡なんです。
上に少し残ってますね。
今は自動車が通る跨線橋として利用されてますが、
ここは大阪市電の跨線橋だったんです。
走ってたのは大阪市電阪堺線。
芦原橋と堺市の出島を結んでました。
通称は三宝線。
1968年9月30日に廃止された路線です。
三宝線が開通したのは、1927年10月1日。
阪堺電鉄という私鉄でした。
目当ては、浜寺公園への海水浴。
この日は芦原橋から、途中の三宝車庫まででしたが。
浜寺まで全通したのは、1935年6月1日。
しかし開業前からライバルの南海電車と阪堺電車があり、
1934年の室戸台風で甚大な被害が出た事もあり、
経営は火の車でした。
1943年には、大阪府警から輸送業務改善命令を受けるほど。
結局、1944年3月27日に大阪市交通局(当時は電気局)に買収されたのでした。
買収されたのは、芦原橋から湊ノ浜まで。
湊ノ浜から浜寺までは、当時既に運休状態でした。
1945年3月13日夜からの大阪大空襲によって、
出島から湊ノ浜までは壊滅的な被害を受け、
復旧されることなく廃止されました。
そこで戦後は芦原橋から出島までの路線に。
しかしモータリゼーションの発達により、
府道29号大阪臨海線の渋滞解消の為、
1968年9月30日をもって姿を消したのでした。
こちらにも台座が残ってますね。
南海汐見橋線(高野線)との交差部。
つい半世紀ほど前までは、大阪市電との共演が見られたんですね。
踏切の南側から。
路面電車用の跨線橋なので、勾配が緩いのがよくわかります。
謎だったのが、この鉄柱。
当時を知る筈の母親に聞いても、不明でした。
おそらく、事故防止用の注意喚起の施設の一部だと思いますが。
ご存じの方、ご教示下さいませ。
という訳で今日もこの跨線橋は、生きています。
阪堺電鉄と大阪市電阪堺線の歴史を伝えながら。
しかし。1927年製のご老体。
現に4.5トン積以上の大型車と2輪車は、通行禁止となってます。
また南海汐見橋線(高野線)の先行きも、不透明です。
なにわ筋線のルートから、外れたので。
ひょっとしたら近い将来、跨線橋は姿を消すかもしれません。
それまでに姿を記録しておきたいものですね。
「津守の地に大阪市電は生きていた!」
おわり
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