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飛び出せ!佐久間探検隊
第三十三回 岸和田の街にはお城もあるでヨ!
ドモ。佐久間探検隊の隊長、佐久間ディックです。
大阪府岸和田市
貝塚市、泉佐野市と並んで泉州の重要都市であり、
毎年秋に開催されるだんじり祭りが有名な町である。
そのだんじり祭りは全国的に有名だが、
岸和田にはお城があって城下町だという事はあまり知られていない。
そこで探検隊は岸和田城を訪れるべく、
最寄り駅である南海本線蛸地蔵駅に降り立った。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970624617-DNhw9UWj6U.jpg?width=1200)
蛸地蔵駅下りホームにはベンチがあるのだが、
今時珍しい木製のベンチである。
ベンチには広告看板が取り付けられているのだが、
広告主はハグルマ株式会社。
泉州民にはお馴染みの、ソースやケチャップを製造している会社である。
年配の方は
「ロゴが昔の南海と同じやん!」
と思うだろうが、それには理由がある。
明治の終わり頃に商品のブランド名について悩んでいたら、
親しかった南海電鉄の社長が
「ウチの使ったらええねん」
と快諾したからだそうである。
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改札を出ると、すぐに踏切道が。
日中でもそこそこクルマが通るので、通行には注意が必要である。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970675672-C2wbYVVTs2.jpg?width=1200)
道路を渡って、振り向くと可愛らしい駅舎が。
蛸地蔵駅は上下ホームごとに駅舎があるタイプの駅。
関西の私鉄のよくあるタイプだ。
ただし上下の駅舎はそれぞれ独立していて、
互いを連絡する構内踏切は存在しない。
つまり下り駅舎から難波方面には行く事が出来ないし、
上り駅舎から和歌山市方面へは行く事が出来ない。
乗車の際は注意が必要である。
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左折して安全を確認しながら踏切を渡る。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970704008-nDjl6uZBpp.jpg?width=1200)
上りの駅舎は1925年に竣工した、南洋風。
諏訪ノ森駅の上り旧駅舎や、現在休止中の高師浜駅の駅舎と似たタイプ。
小さいながらも手入れが行き届いている。
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下り駅舎と同じく、駅名の表示は筆記体。
窓にはステンドグラスが。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970733771-lEViCvv6ml.jpg?width=1200)
駅舎の中に入ると、天井のシャンデリアがお出迎え。
夜になると、暖かい電球の光が駅舎にともる。
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西側の窓の風景。
ステンドグラスは1584年の岸和田合戦を描いたもの。
岸和田合戦は1584年3月に雑賀・根来の大軍が、
中村一氏が守る岸和田城を包囲した戦い。
包囲された中村軍は城を守るために奮戦した。
豊臣秀吉は黒田長政と蜂須賀家政を中村軍の援軍として送り、
両名の活躍によって雑賀・根来の軍勢は撃退された。
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南側の窓には、大きなステンドグラスが。
これは当地に伝わる蛸地蔵の昔話の一場面を描いたもの。
蛸地蔵の昔話は、こちらに詳しい。
https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/mukashi3-takojizonohanashi.html
雑賀・根来の軍勢に対し一人で奮戦する法師、
その法師に助太刀すべく海から現れた無数の大蛸・小蛸が戦う様子が、
ダイナミックに描かれている。
このシーン、映画にしたら面白そうである。
「大魔神」のような特撮時代劇になるだろう。
しかし気の毒なのが、根来の軍勢である。
同じ特撮時代劇の「仮面の忍者赤影」でも悪役にされていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970773538-6r39dtPslB.jpg?width=1200)
駅舎内に貼ってある案内看板。
外国語でも書かれてはいるが、訪問時には外国の方の姿はなかった。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970788771-oAhWQft45A.jpg?width=1200)
下り駅舎の西側を北へ歩み始める。
人通りはまばら。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970833344-ZvBiCZhAdW.jpg?width=1200)
直ぐに交差点に達する。
ここは線路に沿って進む。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970846981-qe1NxkZhej.jpg?width=1200)
進んだ先は細い道。
庶民的な路地になる。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970860753-HBOSzRfmQE.jpg?width=1200)
道に沿って緩やかに左へとカーブする。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970876309-SP7d3wwH44.jpg?width=1200)
閑静な住宅街。
人通りは少なく、時折自転車が通るぐらい。
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この道はここで終点。
交差点を左折する。
手前の建物は大阪府立岸和田高校。
![](https://assets.st-note.com/img/1680970898786-s0hF2tyFtO.jpg?width=1200)
左折した先は、同じような細い道。
![](https://assets.st-note.com/img/1681011560856-cz6C4imznB.jpg?width=1200)
しばらく歩くと、いきなり現れる天守閣。
ここが岸和田城である。
築城したのは楠木正成の一族である、和田孝家とされている。、
時期は建武新政期。
1583年に羽柴秀吉によって叔父の小出秀政が城主に任ぜられ、
秀政によって城の整備が行われて天守閣も築かれた。
何人か城主が変わった後、1640年に岡部宣勝が入城。
以後明治維新まで岸和田の地は、岡部氏によって統治された。
天守閣は1827年に落雷で焼失したが、1954年に現在の天守閣が完成。
焼失前は5層天守であったが、現在の天守は3層3階である。
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城のそばを堀に沿って歩く。
探検隊が訪れたのは4月上旬だったので、
散り初めとはいえ桜の花が残っていた。
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3層3階とはいえ、やはり天守閣を見ると胸が躍る。
天守台だけ残っている場合とは、かなりの差だ。
「一国一城の主」
そんな言葉が脳裏を掠めるからであろうか。
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そうこう歩いてるうち、交差点へ。
直進すればだんじり会館、右折すれば大手櫓門へ着く。
ここは迷うことなく右折した。
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堀を橋で渡る。
のんびりした雰囲気の道だが、自動車通行は可能。
大手櫓門の前まではドライブスルーなのである。
なお、屋台が出店してるのは、取材当日が岸和田城まつりの日だったから。
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橋を渡ると大手櫓門への橋が。
![](https://assets.st-note.com/img/1681011866831-QlBWfZA99a.jpg?width=1200)
橋から見た大手櫓門。
1969年に復興再建されたものである。
千亀利城と言うのは岸和田城の愛称。
由来は本丸と二の丸を合わせた形が機織りの道具である、
「ちきり」に似ていたから。
しかし桜の花が少々残念だ。
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いよいよ本丸へ。
心なしか少し緊張する。
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大手櫓門を潜った先に探検隊を出迎えた石碑。
横にある犬猫立入禁止の看板が愛らしい。
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石碑の隣に建ってる案内看板。
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看板を左に進み、天守への坂を行く。
奥に台座が写ってるのは、城主であった岡部氏の記念碑。
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坂はそう長くはなく、天守のある広場へ通じている。
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坂を上がり切った広場の隅にあるのは、八陣の庭を案内する石碑。
八陣の庭は日本庭園史研究の第一人者である、
重森三玲の作庭による砂庭式枯山水庭園。
1953年7月に着工し、同年12月に竣工した。
諸葛亮公明の八陣法がテーマとされ、
中央の大将とそれを取り囲むように各陣に石組が配置されている。
2014年に国の名勝に指定された。
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これがその八陣の庭。
枯山水の白砂が描く、波の模様が美しい。
また各陣の石組は荒々しく、力強さと頼もしさを感じさせる。
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八陣の庭の前から見た天守閣。
小ぶりの復興天守であるが、纏りの良い美しさがある。
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階段を上がり、天守閣へ。
天守閣の内部は博物館になっており、入場料は大人300円。
館内は残念ながら撮影禁止であった。
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撮影を許されていた、天守3階からの岸和田の街並み。
大阪湾の青さが目に染みる。
3階とはいえ結構な高さなので、気分は殿様気分になる。
探検隊は「天晴!」と思いながら、
懐に扇子を持って来なかったのを後悔した。
「岸和田の街にはお城もあるでヨ!」
おわり。
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