安井息軒《救急或問》25

5(22頁)

一山海ノ利モ天ヨリ我ニ與フル品ナリ、忽カセニ爲スベカラズ、但シ其利ヲ専ラニスルハ、亦天ノ道ニアラズ、材木薪炭ノ類民ニ取シメテ其運上ヲ収ムベシ、總テ租税賦歛ノ法ヲ新ニ立ツル時ハ、老子ノ取者與ヘヨ【①】ト云フ語ヲ忘ルベカラズ、管子ハ此語ヲ延ベテ、知與之爲取政之寶也【②】ト云ヘリ、聖人ハ道ヲ語リテ利ヲ語ラザルユヘ、義者利之和也【③】ト云ヘリ、皆一物ナリ、良賈ハ自然ニ此理ヲ曉リテ、廣ク賣買ヲ爲シ、少シク利ヲ収メテ元方ニ與フルユヘ、其ノ利廣大ニシテ永久ナリ、姦商ハ一旦ノ利ヲ貪リ、元方ノ價ヲ減ズルユヘ、元方手ヲ引テ其家從テ衰フ、韓非カ竭澤而漁、非不得魚、明年無魚【④】ト云ヘルハ此事ナリ、一國ノ主タラン人ハ、謹ンデ竭澤ノ漁ヲ爲スベカラズ、又材木・薪・炭ヲ取ラシムルニ心得アリ、山ニ木無レハ水氣ヲ有タズシテ朽壞ヲ生ズ、旱魃ニハ渓流涸レテ灌漑ノ利ヲ失ヒ、大雨ニハ土石ヲ洗ヒ出ダシ河身高クナルユヘ、洪水暴漲シテ、堤防ヲ衝決シ、田廬ヲ漂没ス、國語ニ、山崩川

(23頁)

竭亡國之徴也【⑤】ト云ヘルハ、天災ノミニアラズ、即チ人害ニテ、人主山澤ノ利ヲ貪ボルヨリ起ル、材炭ヲ取ルトモ、所々ニテ少シツヽ伐ラシメ、山ニ水氣絕ヘザル樣ニ爲スベシ。

注釈:
①《老子・三六章》將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
②《管子・牧民》政之所興、在順民心。政之所廢、在逆民心。民惡憂勞、我佚樂之。民惡貧賤、我富貴之。民惡危墜、我存安之。民惡滅絕、我生育之。(略)故從其四欲、則遠者自親。行其四惡、則近者叛之。故知予之為取者、政之寶也
③ 管見の及ぶ限り、儒教の経典に「義者利之和也」という語句はない。息軒が何を典拠としたか、未詳。
    主客を逆転させた語句であれば、孔子の著作とされる《周易・文言》が「元亨利貞」の「利」字を解釈して「利者義之和也」と言い、《春秋左氏伝・襄公九年伝》にも魯成公の母である穆姜が隨卦の卦辞「隨、元亨利貞、咎」の「利」字について「利、義之和也」と言う場面がある。一方、主客関係をそのままに、孔子が「義」と「利」の関係に言及した語句としては、《大戴禮記・四代》に「義、利之本也」がある。
④管見の及ぶ限り、《韓非子》に「竭澤而漁、非不得魚、明年無魚」という語句はない。息軒が何を典拠としたかは未詳。
 なお全く同じ語句は、唐代の魏徵が著述した《魏鄭公諫錄・諫簡點中男入軍》(王方慶、光緖癸未(1883)、1巻2頁裏)に「竭澤而漁,非不得魚,明年無魚」とある。また韓非子と同時代に編纂された《呂氏春秋・孝行覧・義賞》に「竭澤而漁、豈不獲得。而明年無魚」とある。
⑤《國語・周語上》幽王二年、西周三川皆震。伯陽父曰「周將亡矣。夫天地之氣、不失其序。若過其序、民亂之也。陽伏而不能出、陰迫而不能烝、于是有地震。今三川實震、是陽失其所而鎮陰也。陽失而在陰、川源必塞。源塞、國必亡。夫水土演而民用也。水土無所演、民乏財用、不亡何待。昔伊・洛竭而夏亡、河竭而商亡。今周德若二代之季矣、其川源又塞、塞必竭。夫國必依山川、山崩川竭、亡之徵也。川竭、山必崩。若國亡不過十年、數之紀也。夫天之所棄、不過其紀」。是歲也、三川竭、岐山崩。十一年、幽王乃滅、周乃東遷。

意訳:山海の天然資源(利)も、天より我々ヒトに与えられた品々であり、いい加減に放置しておいてはいけない。ただしその資源(利)を〔政府が〕専有するのは、それもまた天の道ではない。材木・薪・炭の類は〔政府が専売するのではなく〕人民に〔自分で山に入って〕取らせてその利用税(運上)を徴収するようにするのがよい。
総じて課税の法律を新たに制定する時は、《老子》三十六章の「將に之を奪はんと欲すれば、必ず固(しばら)く之を與(あた)へよ」(もし彼からそれを奪おうと思ったら、無理に奪おうとするのではなく、逆にしばらく彼にそれを与え続けよ。そうすれば彼の方からすすんでそれを手放すだろう)という言葉を忘れてはならない。《管子・牧民》はこの言葉を敷延して「與ふることの取ること爲(た)るを知るは、政の寶なり」(相手に利益を供与することこそが相手から利益を獲得することにつながる、それが分かっているのは政治を執る上での宝である)と言っている。いにしえの聖人孔子は常に道徳(道)について語り、利益(利)についてのみ語ることはないため、《周易・文言伝》で「利は、義の和なり」(利益(利)とは、社会道徳(義)が調和的に実現している状態で生じる)と言ったり、《大戴禮記・四代》で「義は、利の本なり」(社会道徳(義)の実行こそが、利益(利)を生む源である)と言っている。これらはみな同じこと(=社会道徳(義)の実現と事業利益(利)の拡大は究極的には一致する)を意味している。
善良な商人(良賈)は自然とこの道理を理解していて、大勢を相手に広く売買を行い、自分の取り分は少しに抑えて利益の大部分を“元方”(卸売問屋・製造元・出資者)に還元するため、〔販売を委託してくる“元方”が引きも切らず、〕その利益は大きくかつ永久に続く。悪徳商人(姦商)は一時的な利益を貪り、“元方”へ支払う代価を減らすため、“元方”が次々と手を引き〔、取引先が減っていって〕その商家は次第に衰退していく。

    韓非子【①】が「池や沼の水を抜いて漁をすれば、魚を得られないわけではないが、翌年は取る魚がいなくなる」と言っているのはこの事である。

    仮にも一国の君主たる者は、〔目先の利益追求は〕慎み、けっして「竭澤の漁」(=人民が餓死するほど高い税を課すこと)をしてはならない。

注釈:
①《韓非子》にこの語句は見えないが、とりあえずそのままにしておく。魚については、《韓非子・説林上》に魯の宰相公孫儀が魚好きであるにも関わらず、魚だけは贈られても決して受け取らなかった説話や、隰斯彌が「淵中の魚を知る者は不祥なり」と言った説話などがある。
また材木・薪・炭を人民に取らせるのにも注意点がある。山に樹木が無ければ、山肌の土壌が水気を保つことができなくて山崩れを生じる。

   山肌の土壌が水分を蓄える事ができなければ、旱魃の時には渓流がすぐ涸れて灌漑の利点を失い、逆に大雨の時には土石が洗い出されて河川の水位が高くなるため、河川の水が暴漲して洪水となり、堤防を決壊させ、田廬(田畑の傍に建てた見張り小屋)を押し流して呑み込む。

 《国語・周語上》に「山崩れ川竭(か)るるは、亡國の徴なり」(山が崩れ河が涸れるのは、亡国の兆しである)と言うのは、なにも天災だけを指して言っているわけではない。つまり“山崩川竭”は人災であって、君主が山林や沼沢の利益を貪〔ろうとして、山林を乱伐す〕ることから起こるのである。山から材木や炭を取るとしても、あちらこちらから少しずつ伐採させ、山肌から水気が絶えることのない様にしなければならない。

余論:息軒の山林資源開発論。息軒が30代のころ出仕していた飫肥藩は、江戸時代に入ってから林業が盛んとなり、特に杉の植林に力を入れ、飫肥杉というブランドで全国に出荷していた。

 飫肥藩は1615年に杉の植林を指示しているが、乱伐による山林の荒廃に歯止めが掛からなかったため、1718年に伐採した木材の利益を領民と藩で等分する「ニ部一山の法」を定めて植林を奨励し、1791年にはこれを「三部一山の法」(領民の取り分が3分の2、藩の取り分が3分の1)に改正して植林事業を強化した。息軒が生まれるのは、1799年のことである。(wikipedia"飫肥杉"参照)
 息軒の「取者與ヘヨ」(減税すれば、トータルとしての税収は増加する)という発想は、確かに中国古典によって裏付けられているものの、その根本には、飫肥藩が領民の取り分を2分の1から3分の2へ増すことで植林事業を軌道に載せたという成功事例があるのかもしれない。

 個人的に、息軒が山林によって降雨時の水分が山肌に留められ土砂災害を未然に防いでいるという仕組みや、山林の乱伐と土砂崩れ・渇水・洪水の因果関係を理解していたこと、そのうえで土砂崩れを”人害”(人災)と喝破していることに驚いた。
 こういう認識は、てっきり現代の環境保護”思想”によって生み出された俗説を、林野庁が森林整備事業に対する国民の支持を集めるために、”ジブリ的”なる人々と結託して広めたものとばかり思っていたからだ。(近年、日本の林野庁は「皆伐」を推進しているそうで、いや、大丈夫なんだろうね。)

 専売について。中国の漢王朝では、かつて塩や鉄、酒などを政府が専売することの可否をめぐって、儒家と法家が激しい論争を繰り広げたことがあり、双方の主張が桓寛《塩鉄論》として現代に伝わっている。儒家は専売に反対する立場にあり、息軒が本段で「但シ其利ヲ専ラニスルハ、亦天ノ道ニアラズ」「材木薪炭ノ類民ニ取シメテ其運上ヲ収ムベシ」というのは、儒家の本分に則ったものといえる。

 義と利について。息軒は両者を二律背反と捉えない。”義”の実践を勧めることは儒者として当然だが、ヒトが自らの利益について考えること自体を頭ごなしに忌避しない。

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