安井息軒《時務一隅》(五)後段

(16頁表)

一  錢穀取扱候役人ハ、古より私欲を働き、官物を盗ミ候事多く候故、取締り宜敷(宜しき)長官を稱して、小吏【①】を待ツ【②】こと濕薪を束るが如し【③】と申し候、又刑律の法【④】にも、監臨盗【⑤】と申事有之(之れ有り)、相務メ候役場の官物を盗み、又は支配下より、物をバ貪収候者、卽ち監臨盗にて、餘の盗より罪一等を重く申付候、右體の罪を贜罪【⑥】と申候、餘罪ハ年限立ち候上、再其人を用ひ候事も御座候へど、贜罪を犯し候者ハ、終身相用ひ不申候、是皆廉耻【⑦】の心を失ひ、國家の大害を引出候故に御座候、然共只今此法のみ御用ひ被成(に成られ)候てハ、嚴に過ぎ候て、未(いまだ)人情【⑧】に適せ

(16頁裏)

ざる所御座候、古人の辭【⑨】に吏祿いまだ豊ならず、小吏の廉を責ること勿れ【⑩】と申語御座候、至極人情【⑪】に通じたる辭に御座候、凡そ血氣ある者【⑫】ハ必欲心御座候、其欲を縱(ほしいまま)にせざるを君子【⑬】と稱し、欲を縱(ほしいまま)に致し候を小人【⑭】と申候、小吏まで盡く君子を得て用ひ度(たき)事に候へども、何時の世とても、夫程までにハ、人材備わらざる者に御座候、此に因て幹事(事ニ幹タル)之才【⑮】有之(之れ有り)、其心奸佞【⑯】ならざる者に、小々不行屆の【★】御座候ても、用ひざる事を得ず、此等の人、錢穀の中に身を埋、俗事謝養【⑰】之貯、闕乏致し候へバ、必欲心生じ、種々に手を付、官物を掠候儀、凡人の常情【⑱】に御座候、古人ハ聰敏に候故、此處に早く目を付、錢穀の吏ハ、格別に精【⑲】【★】致し、其員を少くし、其俸を多くし、萬一贜罪を犯し候節ハ、常人より罪を一二等重く申付候、是小吏を待候第一の良法に御座候、總て表向より出候財ハ、定額御座候故、小々出

(17頁表)

增候ても、憂るにたらず候、內證にて減し候財ハ、漏甕に水を注ぐ如く、如何程力を盡して汲入候ても、晝夜間斷なく漏れ候故、甕の滿る期無御座(御座無く)候、是故に治國の道に通じ候者ハ、吏員を省き、其撰を精【⑳】(くはし)くし其の俸を多して、姦詐【㉑】無之樣仕向ケ、其上にて贜罪を犯し候者ハ、嚴刑を加へて其餘を戒め候、古より冗官【㉒】を省き候を、善政の第一と致し候【㉓】、此譯に御座候、勘定局其外財利に關係致し候役人ハ、此心得にて御使被成度(に成られたく)候(未完)

注釈:
①小吏:下級役人、平役人
②待ツ:扱うこと、待遇すること
③小吏を待ツこと濕薪を束るが如し:鬼上司が、部下を厳しく締め上げて酷使する様子。湿った薪は柔らかくなっているため、乾燥している薪よりきつく縛ることが出来ることから。
※《史記・酷官傳》(寧成者)為人上、操下如束溼薪
④刑律の法:中国の《唐律》と、それを参考にした日本の《大宝律令》。《養老律令に》には「監臨主守自盗条」はない。
⑤監臨盗:官吏による横領と収賄の罪。《唐律》に「監臨主守自盗条」。「監臨盗」については、《救急或問》にもほぼ同じ話がある。
⑥贜罪:贜物罪、盗品等関与罪。不当な方法で財物を得る罪。
⑦廉耻:清廉潔白で、恥を知る心が強いこと。
⑧情:「情」字、底本は正字体(月部が円)に作る。文字コードの制限で、常用漢字体を用いる。
⑨古人の辭:ここでは、北宋の初代皇帝である趙匡胤の言葉を指す。《救急或問》でも引用がある。
⑩吏祿いまだ豊ならず、小吏の廉を責ること勿れ:《宋太祖詔》吏員猥多、難以求治。俸祿鮮薄、未可責廉。與其宂員而重費、莫若省官而益俸。差減其員、舊俸月增給五十。
⑪情:「情」字、底本は正字体(月部が円)に作る。文字コードの制限で、常用漢字体を用いる。
⑫血氣ある者:血液と気脈が全身をめぐっているモノ、すなわちヒトを含む動物のこと。
※安井息軒〈性論〉:有其性、而無血氣心知者、草木是也。有血氣心知、而無風習之異者、禽獸是也。
⑬君子:人格者、徳が高く品位のあるヒト、紳士。
⑭小人:小人物。器の小さいヒト、徳に乏しいヒト、小物、身分の低いヒト、小悪党。
⑮幹事之才:中間管理職としての才能。組織トップの意図を正しく汲み取って、自ら計画を立案し、人員や物資を手配し、陣頭で指揮をとって、遂行できるだけの才幹。
⑯奸佞:心がねじけて、悪がしこく、人にへつらうこと。
★義:底本は「義」に作る。《時務一隅》はここまで「儀」字を用いる。今は改めない。
⑰謝養:未詳。「謝」は上役に登用・昇進の謝礼を渡すこと、「養」は家族を扶養することか?待考。
⑱情:「情」字、底本は正字体(月部が円)に作る。文字コードの制限で、常用漢字体を用いる。
⑲精:「精」字、底本は正字体(月部が円)に作る。文字コードの制限で、常用漢字体を用いる。
★選:底本は「選」字に作る。《時務一隅》はここまで「撰」字を用いる。今は改めない。
⑳精:「精」字、底本は正字体(月部が円)に作る。文字コードの制限で、常用漢字体を用いる。
㉑姦詐:嘘や策略で人を陥れようとすること。悪巧み。
㉒冗官:無駄な官職。
㉓義:底本は「義」に作る。《時務一隅》はここまで「儀」字を用いる。今は改めない。


余論:息軒による財政再建のための行政改革案で、経理担当者の待遇改善と横領・収賄罪の厳罰化を説く。《救急或問》にも、全く同じ内容がある。
 息軒は北宋初代皇帝趙匡胤の言葉を引いて、経理担当者は定員を減らして人物を厳選し、定員を減らすことで浮いた人件費を、採用した経理担当者の給料に上乗せしてやれという。そして高給を与える代わりに、もし職権を乱用しての横領・収賄が発覚した場合、他の者より重罪として罰を重くせよという。
 息軒も、すべての官吏を聖人君子で固めることは常識的に不可能で、必要な人員数を確保するためには「事に幹たるの才之れ有りて、其の心奸佞ならざる者に、小々不行き屆きの義御座候ひても、用ひざる事を得ず」と、多少の問題行動には目をつぶらざるを得ないことは認めつつ、そのぶん、清廉潔白な人材は経理にこそ集中させるべきだという。

 また「凡そ血氣ある者は必ず欲心御座候ふ」という「性悪説」的な人間観が垣間見える。ただし息軒自身は、〈性論〉冒頭で「人の性善なるは論無し」と「性善説」支持を表明している(が、息軒の場合、その「性善」の定義が一般的な理解と異なっているので注意が必要だ。)
 そのうえで、「ちゃんと働いてもらいたければ、相応の給料を払え」という主張は、ただ一方的な忠義を説く儒者とは一線を画す様に思うし、医療従事者がコロナ禍対応の激務に疲弊するなかで、夏のボーナス全カットを発表して看護師の大量離職(というか造反)を招いた挙げ句、あろうことか看護師の職業倫理を責める某大病院経営陣や、この期に及んで五輪のために500人の看護師をすべてボランティアで揃えようという政府関係者など、まだ「やりがい搾取」でいけると思っている古いタイプのリーダーがはびこる今こそ、息軒が注目されるべき。

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