安井息軒《時務一隅》(二)04b

04-04 扠(さ)て人の才智識見を長じ候ふは、學問を第一と致し候ふ事故、人材教育の法、學問御勸め候ふ儀は勿論の事に御座候ふ。然れ共風習の害を御除きに成られず候ふては、如何程學問御勸め成され候ふても、人材成就致すまじく候ふ。

意訳:さて、ヒトの才知と見識を成長させますのは、学問を第一といたしますので、人材教育の方法が学問をご奨励になられます事であるのは勿論の事でございます。しかしながら風俗・習慣の弊害をお除きにならなくては、どれほど学問をご奨励になられましても、人材が育つはずがありません。

余論:前段までに、幕府の官吏に任用される譜代大名・旗本・御家人たちが、人材としてはそれぞれ深刻な問題点を抱えていることを指摘し、その抜本的解決の必要性を訴えた。本段では、人材教育の第一が学問奨励にあることに同意して、暗に幕府のこれまでの文教政策に一定の評価を与えつつ、やはり前段までに指摘した問題点を放置したままでは、そうした文教政策も効果が見込めないといい、以下にその具体的な解決策を述べていく。


04-05 先づ諸侯並びに大祿の幕士等の害は、驕奢淫逸にして、柔弱に陥り、小才を喜び候儀、第一に御座候。此れ皆婦人を親しみ候ふより起こり候ふ。此の害を除き候はば、速やかに相ひ改まり申すべく候ふ。總て人々の氣習、十四五歳迄には、大略相定まり申し候ふ。其の定まり候ふ處は、必ず馴れ候ふ處に本付き候ふ。古より賢父の子必ずしも賢ならず、賢母の子ハ多く賢者に成り候ふは、幼年の節は専ら母を親しみ、其の氣習に馴れ候ふ故に御座候ふ。
 扠て貴賤となく、馴れ候ふ事は善しと心得、馴れざる事は惡しと心得候ふは、人情の常に御座候ふ。然れば小人に馴るれば小人となり、君子に馴るれば君子と成り候ふ儀、當然の理に御座候ふ故、才智衆に勝れ候ふ人は、善惡には迷はず候得共、馴れざる事を厭ひ、馴れたる事を安んじ候ふ儀、是れも又た人情の常に御座候ふ。古人も此の事を論じ候ふて、「扞格不受之患」(扞格して受けざるの患)ありと申し候ふ。不正の事に馴れ候得ば、正しき事は請け付けざるを申し候ふ。

意訳:まず大名諸侯並びに旗本などの高い身分の幕士などに見られます弊害は、驕り高ぶって遊びにふけり、柔弱で、〔深い学識やすぐれた才知などより〕ちょっとした機転を重視しますことが、第一でございます。これらはみな、彼らがずっと母親や女中といった女性とばかり接して、彼女らに馴染んできたことより起こります。この悪影響を除きましたら、速やかに〔その性格的欠点は〕改まるはずです。
 総じて人々の気質や習性は、14,5歳までにはだいたい定まります。その定まりますところは、必ず〔幼少期から〕馴れ親しんだ対象にもとづきます。昔から賢父の子供が必ずしも賢者でないのに対して、賢母の子供がほとんど賢者になりますのは、幼年の頃にもっぱら母と接して、その気質や習性に馴れ親しみましたがゆえでございます。
 さて身分の貴賤に関係なく、自分が馴れ親しんでおります事は「善」と考え、馴れ親しんでいない事は「悪」と考えますのは、ヒトの心理(人情)の常でございます。だから小物(小人)に馴れ親しめば小物となり、立派な人物(君子)に馴れ親しめば君子となりますことは、当然の理でございますので、才知が一般より優れております人は、例えばある事柄についてその良し悪しの判断には迷いませんけれども、それでも〔良し悪しに関する合理的判断を離れて、〕慣れていない事を避け、慣れ親しんだ事に安住します事は、これもまたヒトの心理(人情)の常でございます。
 昔の人もこの事を論じまして〔、《禮記・學記》には「發して然る後禁ずれば、則ち捍格して勝えず」(すでに悪癖・悪習が定着してしまった後でそれらを禁止されると、激しい拒否反応を起こす)とありますが〕、“扞格して受けざるの患あり”(拒絶して受け付けなく弊害がでる)と申しています。これは、不正な事に馴れ親しみますと、正しい事を受け付けなくなることを申します。

余論:まず譜代大名や旗本といった高位の身分の者たちが抱える性格的欠点(贅沢、怠惰、柔弱、小賢しさ)が、全て幼少期からお屋敷の奥深くで母親や女中たちだけに囲まれて、過保護に育つことから生じていると決めつける。現代でも“容疑者は過保護すぎる母親に甘やかされて育ったため、自我を極度に肥大化させ、わがままで身勝手な性格に育ち”云々といった精神分析がまかり通っているので、一概に息軒の発言を女性蔑視と責めては不公平だろう。

 息軒によれば、元服を迎える14~15歳の頃にはすでに人格はほぼ完成し固定化してしまうので、それ以前に最も長く接した人物こそが人格形成に最も大きな影響を及ぼすことになる。譜代大名や旗本の子弟についていえば、それは母親と女中たちということになる。特に大名の嫡子は、父親が参勤交代で地元と江戸を往復するのに対して、「証人」(人質)として母親とともにずっと江戸藩邸で暮らしているので、母子関係はより濃密なように思う。
 ちなみに文科省のレポートによれば、現代においても「児童生徒の学力は父親の学歴より母親の学歴との関係性がより強く出る」といい、日本男児は父の背ではなく母の背を見て育つものらしい。閑話休題。

 息軒の考えでは、いったん人格が完成してしまったた後では、これを矯正するのは困難である。ヒトは、それが間違っていると合理的に判断できても、習慣化したものを変えることを拒む性質があるからだという。これは現代のマーケティング理論でも指摘されていることで、例えば画期的な新商品が発売されても、84%の人間はすぐには手に取らず、従来の商品をそのまま使い続けるという(ジェフリー・ムーア)。だから、大人は他人から欠点や悪癖を指摘されたところで、直せないし、直さない。

 この息軒の考え方を敷延すれば、一般に昌平黌へは元服してから通うので、昌平黌のなかでいくら旗本の子弟に対して人格教育を施しても、手遅れなのである。息軒は25歳のころに飫肥藩(宮崎市清武町)から江戸へ出て昌平黌へ入っているが、その際に旗本の子弟らに容貌や身なりを散々にいじられ、(ブチ切れて)「今は音を忍が岡の時鳥いつか雲井のよそに名告らむ」と書きなぐった紙を寮の自室の壁に張っていたという。息軒が”旗本連中は本当に救いようがない”と冷徹に言い放つ時、その脳裏にはかつての同級生たちの姿ーーせっかく昌平黌へ入ったのに、勉強もせずに毎日呑み歩くーーが浮かんでいたのではないか。


04-06 之れ依り八歳出でて外傅に就くの法を立て申し候ふ。大祿の幕士以上は、男子八歳に成り候はば、速やかに婦人の手を離れ、表に出し、成る丈德剛直の士を撰び、傅役(もりやく)となし、生ひ立ち宜しき童子
を相手となし、其の歳相應に、人君の治亂に處し候ふ昔語り等申し聞き、衣服器物等、何□も入らず【①】疎品相ひ用ひ、學問武術に心を委め候ふ樣諭し成され候はば、人材日を逐ひて盛んに相ひ成り申すべく候ふ。
 右御諭しの趣は、外夷猖獗に付きては、何時(いつ)異變致し出來候ふ儀も計り難く、諸侯以下、是れ迄の心得身持ちにては、治亂とも御奉公向き差し支へ申すべく、其の身の爲には別(はな)れ相ひ成らず候ふ間【②】、精々輔導の心を用ひ候ふ樣仰せ出され候はば、大抵行はれ申すべく候ふ。

注釈:
①底本は「不入何□」に作る。文意未詳。文脈によれば“高価な品や特別な品は何もいらない”の意だろう。
②底本は「別レテ而不相成」に作る。文意未詳。尊敬語も謙譲語もないので、恐らく「大祿の幕士」について言及しているのだろう。

 これにより〔、《禮記・内則》にも「十年にして出でて外傅に就き、外に居宿して書記を學ぶ」とありますが〕、私は“八歳になると家庭を出て「外傅」(学校の教師)に就いて学ぶ”という教育方法を立案いたします。

 高い身分の幕士である旗本以上の家柄の子弟〔や、「証人」制度の関係で江戸に居住しております大名諸侯の嫡子〕は、男子で八歳になりましたら、速やかに母親や女中といった女性の手から離し、お屋敷の奥から表に出し、できるだけその品性(德)が剛直な成人男性(士)を選んで傅役(もりやく)とし、生い立ちのよい児童を一緒に学ぶ相手とし、その年令に合わせて、昔の君主が世の中が治まっている時や乱れている時にどう対処したかという昔話などをお聞かせし、衣服や身の回りの道具などは高価なものは何もいらず、粗末な品を使用し、学問と武術に心を任せます様にお諭しになられましたら、〔彼らの成長にともない〕幕府の人材は日を逐うごとに充実して参るはずです。
 右のように〔譜代大名や旗本へ〕お諭しになる趣旨は、外人どもが勢いを増している(猖獗)現状につきまして、いつ異変が起こりますか予測も難しく、大名諸侯以下、これまで通りの考えや姿勢では、世が治まっていても乱れていても幕府の要請に応じて出陣する(御奉公)には差し支えるはずで、彼ら自身のためにも避けられない問題ですので、可能な限り(精々)子弟教育(輔導)に心を砕くよう仰せ付けられましたら、たいてい実行されるはずです。

余談:息軒による教育制度改革案。前段で、息軒は15歳までの人格教育が重要であると主張した。それを踏まえて本段において息軒は、大名や旗本といった高い身分の家柄の子弟を対象とした初等教育機関(小学校)の設立を提言している。イギリスのパブリックスクールを思わせるが、元ネタは《礼記・内則》の「十年にして出でて外傅に就き、外に居宿して書記を學ぶ」である。ただ《礼記》が10歳からとするところを、息軒は8歳からとしている。

 江戸幕府が息軒の提言を採用した痕跡はないが、明治4年に明治天皇から華族へ勉学奨励の勅諭が出され、明治10年に学習院が開設されているが、創設時の学習院には中等科とともに男子初等科・女子初等科が設置されていた。初期においては軍事教練と体育が重視されていたという。
 もちろんこれが息軒の影響云々ということを主張するつもりはないのだけど、パブリックスクールに類似したコンセプトが文久年間の時点ですでに提言されていること、それが儒家的見地に基づくものであったことは、注目されてもいいと思う。

 大名や旗本ともなれば、子弟教育は「内傅」(家庭教師)を屋敷に置いて、家庭内でいくらでも高い教育を受けさせることは可能である。だが息軒はそれ以上に、子弟が「婦人の手を離れ」ることと「表に出す」ことを優先しているようだ。
 子弟が”女性”的、というより、”母性”的な人間関係のなかに絡み取られてしまう前に、その周囲を「剛直な士」と「生い立ち宜しき童子」で固め、華美な衣服と用具を廃し、英君の物語を語り聞かせるなどして、とにかく”男性”的な価値観で塗り固めてしまおうという意図がうかがえる。
 ここで息軒によって示された教育方針は、明治に入って日本が急速に軍事国家へ変貌していくことを考えれば、ある意味、時代の要請に応えたものだと言えるだろう。 

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