27 July 1992

7/27 おば 王砚農(Wang3 yan4 nong2) わか 井梦然(Jing3 meng4 ran2)

この姓名は、授業を担当した講師の名前。王老師が本職で、上級担当。井老師はたぶんバイトの院生じゃないかと思う、全然、授業をしなかった。私は井老師のクラスだった。

18 September 2022

朝、6:30にSYにおこされて 7:00すぎ留学生食堂へ行った。クレープとおカユを食べたが、あんまりおいしくない。午前中のガイダンスへ出たが、オッサンの中国语はさっぱりやったし、英语のおバチャンは声は小さい 日本語のネ~チャンはなかなかやわらかい日本语を话す。

その後 テストをうけたが、ヒヤリングは听不懂だ。文法は多少できた。その後の「会话」、NDさんが力わざで意思疎通をこころみるのをだまって横でみていた。

昼メシは食堂がこんでたので、外(昨日の朝の)へでた。「包子をたべよう。」ということで、夕べのカタキ讨ちをしたわけだが、「一个」がカゴ一枚を示すのか、包子一個なのかわかんなくて、「两个」といったらハシを2組くれて「やばいなぁ~」と思っていたら、2カゴ[3.6元]、計16個きてしまって とほうにくれた。一カゴめは喰ったが のこりをどうすることもできない。「困った ゝ」と云いあってたら、老婆と子供のコンビがあらわれ、物ゴイをはじめたので その八つをやってしまった。にしても五体満足なものが 働かず物ゴイをするというのは、なんかヤダナとみんなで話していた。[メガンテである。]その後もしばらくからまれた。

包子だが、現在の中国では日本と同じく一個単位でも売っている。2022年初頭の長沙市で、一個がだいたい1.6元。このときは確か男5人で入って、5人がそれぞれ「一个」ずつ頼んだ。私は空腹だったので、一人「两个」頼んだ。待っているうちに、客がみんなカゴ単位で受け取っていく、個数単位で受け取る客がいないことに気づき、「あれ?」と思ったら、豈に図らんや、2カゴ来た。ツレはみんなそれぞれ1カゴ食べているわけだから、もうどうにもならなかった。

18 September 2022

その後 入学金&授業料1579.2元を払う際、写真が2枚たんないので、外へとりにいこうとすると、例の婆&男の子コンビが道をふさぐ。「ないない。」と通りすぎようとしたが うまくコースに体ごとは入ってきやがる。腹がたつので【①】 そのままひき返して、一刻してから サクをのりこえてとりにいった。コダックの店で、4枚セットを2つ注文した。四時にとりにこいというので、一担帰って則天武后を読みながらウトウト・・・・・。その後、手続きもすませ、写真をとりにいった。なかなかできがいい。一昔前のアイドルのプロマイドみたいだ。

①腹がたつので:老婆と男子児童の物乞いに対して腹が立ったということ
 当時は、社会主義国に物乞い――しかも学齢児童の――がいるとは思っていなかった。社会主義国の社会福祉が、資本主義である日本より充実していないとは、まさか夢にも思わず、中国では国民全員が公務員として、何かしらの仕事が与えられ、食べていけるだけの給料をもらえているものだと思いこんでいた。無邪気にも。

 そもそも当時はバブル末期だったので、当時の大学2年生だった私にとって卒業したらどっかに就職するのは――「できる」と言わなかった。当時は、就職なんかできて当然の買い手市場だったから。ドラえもんの1話では、のび太が就職できなかったことがギャグとして描かれていて、僕らも「のび太、どんだけダメなんだよ」と笑っていた。のび太がどこにも就職できないから仕方なく自分で会社を作ったというのも、「誰も褒めてくれないから、自分で自分に表彰状を書いた」みたいなニュアンスで捉えていた。また「ダメおやじ」というギャグ漫画があり、会社員で結婚して子供を二人作り一軒家を建てていた主人公が、取り柄がないダメな大人として描かれていたし、僕らもそう思っていた。スゴイ時代だった――中学を卒業したら高校へ進学するぐらい、当然のことだった。
 もちろん昭和の時代にも橋の下などで暮らすホームレスはいたが、当時の私の認識では彼らは「物乞い」などしなかったし、ただ単に自分がそこでそうしていたいからそうしているというだけの、キャンパーのような存在と捉えていた。

 だから、社会主義国の中国に物乞いがいるということが信じられず、「必要もないのに物乞いをしているのだ」と思っていた。もちろん、今では当時の中国には社会福祉がなかったも同然だったことを理解しているので、彼女らが物乞いをせざるを得なかった事情にも多少は理解が及んでいる。が、当時はただのタカリだと思い、相当ムカついていた。

18 September 2022

で、晩飯をくいに昨夜のところへ5人ででかけた。今度は米饭もきたし、北京ビールもうめぇ~!!なんとか頑張って4週间後には、
「あら、QS いらっしゃい よくくるわね。」
「フッフッフッ、あなたの顔がみたくてーーー。」
「あら、もうお上手」
という会话を成立させたいものだ。にしてもだ。来て2日というのにすっかりチャイニズ・ネイティブ・ライフに順応してしまっている。自分がこわい。NDさん曰く、
「なんか 故里のような。何年もここに住んでいるよーな気がする。」
同感だ。

 このノリ、我ながらサムい。
 この15年後に台湾で10年間(2007-2017)暮し、25年後に湖南で5年間(2017-2022)生活することになるのだが、「何が『すっかりチャイニーズ・ネイティブ・ライフに順応してしまっている』だ。何も分かっちゃいねぇよ、お前は」と言いたい。しかしこの「ちょろいぜ、中国暮し」という感覚があったからこそ、35才で海外転出に踏み出せたのだと思う。

17 April 2024

食後、319で茉莉茶を饮んでいると、NDさんの部屋に相棒とうちゃく。[その前にオバチャンが兌換100元をもって入ってきた。何のことだがわからんかったが、相互の協力の末、100元を10元に両替してくれとのことだった。]大阪出身「イシイ社长」みたいなオッサンだ。あと2人の女の子はケッコウイイラしい。たのしみだ。

当時の自分(大学2年生20才)が女性に対して貪欲というか、「肉食系男子」であったことを意外に思う。というか、女性に対するノリが完全にバブルというか、昭和のそれで――当時はバブル最後の年だったし、昭和が終わってまだ3年しか経過していなかったから、平成世代も3才未満だった――、我ながら薄ら寒い。俺ってこんなだったっけ?もっと、こう、超然としてなかったけ?

18 September 2022

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?