安井息軒《救急或問》21

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一樊遲ガ稼ヲ問ヒシニ、孔子我レ老農ニ若カズト答ヘ玉ヒシハ譯アルヿニテ、稼ヨリ大ナル事ニ心ヲ用ヰシメンガ爲ナリ【①】、尤モ農ノ稼ニ通シタルハ論モナキヿナレ共、下

(20頁)

賤ノ者ハ一偏ニ滞リ、我習熟セシ事ヲ自負シ、習熟セザル事ハ蹴ナシテ敢テ爲ザル者ナリ、故ニ其土地ニ習ハザル事ヲ開クニハ、嚴令ニテ行ハレ難シ、凡ソ一村ノ中ニハ、道理ニ敏クシテ、衆人ノ服スル者一兩人ハ必アル者ナリ、其ノ者ヲ能ク諭シテ開カント思フヿヲ爲サシムベシ、其利アルヲ見レバ上ノ勸メヲ待タズシテ、一同ニ倣ヒ行フハ人情ナリ、總テ百姓ハ小兒ノ如キ者ニテ、嚴令ノミニテハ何事モ行ハレズ、心ヲ盡シテ倦マズ怠ラズ、其人ヲ擇ミテ教ヘ諭シ、其手ヨリシテ衆人ニ及ボスヲ上策トス、書經ノ盤庚ヲ讀ミテ、古ノ賢君民事ニ心ヲ盡スヿ赤子ヲ保スル如シト云ヘル趣ヲ曉ルベシ【②】、尋常ノ人ハ一二度令シテ從ハザレバ、退屈シテ打チ棄テ置ク故ヘ何事モ行ハレズ、子路ノ益ヲ請ヒシニ、孔子ノ勿倦ト答ヘ玉ヒシコトヲ思ヒヤルベシ【③】。

注釈
①《論語・子路》樊遲請學稼。子曰「吾不如老農」。請學為圃。曰「吾不如老圃」。樊遲出。子曰「小人哉、樊須也。上好禮、則民莫敢不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情。夫如是、則四方之民襁負其子而至矣。焉用稼」。
②〈盤庚〉とは《尚書・商書》に含まれる上・中・下三篇で、かつて殷王盤庚が遷都を決定したものの、人民があまりに文句を言って従おうとしなかったため、百官に対して人民を説き伏せるよう命じた言葉を記録したものである。内容的には本節の主旨に適っているが、ただ「赤子を保するが若し」という句は〈盤庚〉に見えない。この句は〈康誥〉に見え、「嗚呼、封、有敘時、乃大明服、惟民其敕懋和。若有疾、惟民其畢棄咎。若保赤子、惟民其康乂(略)」とある。また《禮記・大学》は〈康誥〉を引用して「所謂治國必先齊其家者、其家不可教而能教人者、無之。(略)《康誥》曰「如保赤子」、心誠求之、雖不中不遠矣」といい、さらに《孟子・滕文公上》にも「徐子以告夷子。夷子曰「儒者之道、古之人『若保赤子』、此言何謂也。之則以為愛無差等、施由親始」とある。もしかすると、本節の"盤庚”は"康誥"の誤りかもしれない。待考。
③《論語・子路》子路問政。子曰「先之、勞之」。請益。曰「無倦」。※《論語・顏淵》子張問政。子曰:「居之無倦、行之以忠」。

意訳:《論語・子路》で樊遲が孔子に農業(稼)について教えを請うたところ、孔子は「吾 老農に如かず」(農業に関して、私の見識は老農夫に及ばない。特に教えられることはない)とお答えになったのにはわけがあって、樊遲に農業(稼)よりもっと大きな問題(礼・義・信)に関心を持たせるためであった。
もっとも、農民が農業(稼)に精通していることについては異論はないが、ただし身分が低い者たちは往々にして一つ所に停滞して、自分が習熟しているやり方を自負して、習熟していないやり方は貶(けな)して鼻からやろうとしないものである。だからその地域であまり行われていない農法を広めるには、厳格な法令ではみんなにやってもらうのは難しい。
〔では、どうすればいいか。〕一般的に、一つの村の中には、物事の道理に対する理解が速くて、みんなから一目置かれている人物の一人や二人は必ずいるものである。その人物に今から広めたいと思っている農法についてよく言い聞かせて理解させた上で、やらせるのがいい。その農法に利点があるのを実際に見れば、為政者からの奨励を待たずして、みんな一斉に真似してやり始めるのが、人の心理(人情)というものである。

総じて百姓は小さな子供のようなもので、厳格な法令だけでは何事も実行されない。為政者が心を尽くして倦(う)まず弛(たゆ)まず、適切な人物を選んで教えさとし、彼のほうからみんなに影響を及ぼすのが上策だと思う。
  《書經》の〈盤庚〉【★】を読んで、大昔の賢明な君主が“人民の事に心を尽くすことは、赤子を育てるようなものだ”と言っている趣旨を理解するべきである。普通の為政者たちは、新しい農法を広めようと一、二度法令を出してみるものの、人民が素直に従わなければ、すぐ嫌になって関心を失って放置してしまうので、何事であれ改革は実行されない。

  《論語・子路》で、衛国での仕官が決まった子路が赴任にあたって孔子に政治について教えを請うも、「周りに率先してやれ、周りをいたわれ」としか言われず、もう少し助言を求めたところ、孔子が「倦む勿かれ」(投げ出すな)とお答えになったことを考えるべきである。

★〈盤庚〉:あるいは〈康誥〉の誤り。

余論:息軒による”新手法の普及方法”。息軒の提唱する普及方法とは、影響力のある人物を選んで先行試験的に新手法に取り組ませるというもので、現代でいうところの「インフルエンサー・マーケティング」に近い。

また息軒は「現状維持バイアス」というものをよく理解しており、一般人は「習熟セザル事ハ蹴ナシテ敢テ爲ザル者ナリ」という。これは江戸時代の農民に限った話ではなく、現代日本においても「デジタル化」は一向に進まないし、スマホ決済は定着する気配も見せないし、昔ながらのやり方に固執するのは日本人の宿痾というべきかもしれない。

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