安井息軒《救急或問》32(最終節)

(27頁)

一淫奔【①】ハ風俗ヲ亂ルノ大ナル者ナリ、嚴禁セザルベカラズ、古ハ淫罪【②】ヲ犯シタルモノハ

(28頁)

宮刑【③】ニ處スレ共、今世ニハ重過キタリ、貴賤男女トモ笞刑【④】ヲ與フベシ、夫アル女ノ姦通ハ、是迄ノ通リ、其夫ノ心ニ任スベシ【⑤】、鄙賤ノ者訴ヘ出ヅレバ、强姦和姦ヲ分ツテ罪スベシ、强姦ハ俗ニ云フ强淫ナリ、男子ハ死罪タルベシ、和姦ハ女モ承知シテ通ズルナリ、男女同罪ニテ笞刑タルベシ、夫アル女ハ處女【⑥】ヨリ二等ヲ加フ、男子モ是レニ準ズ、淫蕩【⑦】止マザル者ハ、藩士ハ格ヲ降シ、甚シキハ仕籍ヲ除キ、婦人ハ幽閉シ〔、〕民庶ハ黥シ【⑧】、婦人ハ婢ニ賜フベシ【⑨】、士人ノ女三嫁ノ後ハ、人妻ト成ルヿ(こと)許サズ〔、〕降シテ妾【⑩】ト爲スベシ、聖王ノ治ハ、必閨門【⑪】ヨリ始ル、忽(おろそ)カセニスベカラズ、右其大畧ナリ、其全キヲ成スハ其人ニ在ラン、書ノ能ク盡ス所ニ非ズ。

注釈:
①淫奔:性関係に奔放なこと。
②淫罪:性犯罪、不倫、婚前交渉など、婚姻関係にない男女による性行為。ただし売買春は、当時は合法だったので含まれない(1972年に非合法化)。
③宮刑:中国の肉刑の一つ。男性器を切除する刑罰を「腐刑」といい、「腐刑」に処した上で後宮での労役を科す刑罰を「宮刑」という。前漢の《二年律令》に「強與人奸者、府以爲宮隷臣」とある。
 宮刑に処された者を宦官といい、中国以外に朝鮮王朝でも採用された。中国の有名な宦官としては、春秋時代の斉桓公に仕えた豎刁や始皇帝に仕えた趙高、《三国志》の十常侍などがいる。日本では、《日本書紀》の「官者」が宦官を意味するという説があり、室町幕府の《建武式目》に腐刑の規定があるものの、宦官制度はほとんど導入されなかった。
④笞刑:鞭打ちの刑。体刑の一つで、息軒が復活を提言している。竹竿で臀部を打擲し、50回、70回、100回の三段階が設定されている。第31節参照。8代将軍徳川吉宗によって公式の刑罰として制定されている。
⑤其夫ノ心ニ任ス:江戸時代では、既婚女性が不倫(姦通)をした場合、夫には妻とその不倫相手の男性に対して私的制裁を加える権利が認められていた。この法概念は明治時代にも継承され、明治13年には夫による親告罪としての姦通罪が制定され、不倫をした妻とその不倫相手の男性には懲役刑が科されることとなった。戦後、男女平等の観点から姦通罪は廃止された。
⑥處女:“まだ実家に処(お)る女(娘)”で、未婚女性を意味する。現代の「処女」(性体験の無い女性)とは異なる。
⑦淫蕩:酒色にふけってだらしないこと。「呑む打つ買う」
⑧黥:黥刑、入れ墨を入れる刑。息軒が復活を提言している。第31節参照。江戸時代には「墨刑」として広く実施されていたが、統一した規定があったわけではない。
⑨婦人ハ婢ニ賜フ:女性犯罪者に対して執行する、黥刑相当の刑罰。息軒が導入を提言している。自由民としての権利を剥奪して売買可能な奴隷にしたうえで、下女として藩士に与える。第31節参照。
⑩妾:一夫多妻制における、正妻以外の配偶者。側室、側女、めかけ。
 明治3 (1870) 年12月に公布された《新律綱領》では、正妻に準じる身分として規定されたが、明治15年(1882)《旧刑法》では(西洋文明国の一夫一妻制にそぐわないという理由で)廃止され、法律上の身分保証を失った。
⑪閨門:寝室。転じて夫婦関係、家族関係を指す。中国の伝統思想では、夏桀王の末喜、殷紂王の妲己、西周幽王の褒姒など、女色を君主が政治をおろそかにする原因として戒めている。

意訳:性の乱れ(淫奔)は風俗を乱す大きな原因であり、厳しく取り締まらなければならない。

  昔は性犯罪や不倫、婚前交渉など(淫罪)を犯した者は性器を切除する「宮刑」に処したけれども、現代(※江戸時代)においては重過ぎる。貴賎・男女を問わず笞刑(=鞭打ちの刑)を加えるのがよい。

 夫がある女性の不倫(姦通)は、これまで通り、その夫の判断に任せるのがよい。ただ妻や間男に私刑を加えるだけの力を持たない平民が訴え出た場合、强姦と和姦を分けたうえで、政府が夫に代行して罰を加えねばならない。强姦とは俗にいうレイプ(强淫)であり、男子は死刑にすべきである。和姦は、女性も同意のうえで性行為に応ずることであり、この場合は男女同罪として笞刑にするのがよい。
 夫のある女性は未婚女性より刑量を二段階重くし、〔妻のある〕男子もこれに準ずる。
 酒色にふけってだらし無く(淫蕩)、その生活態度を改めようとしない者は、もしこれが藩士であれば降格させ、程度がひどすぎる者はさらに士籍を剥奪して平民に落とし、士族の女性は幽閉する。
 平民であれば黥刑(入れ墨)に処し、平民の女性は〔自由民の資格を剥奪して売買可能な奴隷にし、〕下女(下婢)として〔藩士に〕与えるのがよい。

 士族の娘が三回嫁いだ後は、つまり三回結婚して三回離婚している娘は、それ以降は正妻の立場になることを許さず、再婚しても側妻(妾)止まりとするのがよい。

 聖王の統治は必ず夫婦関係(閨門)から始まる。けっして疎かにしてはならない。
 右が、冒頭の質問者に対する答えのあらましである。これを完遂できるか否かは、それに取り組む人の意欲と能力に依存することになろう。いずれにせよ、「治国の道」は文章で完全に説明しくせることではない。


余論:息軒による性犯罪(不倫を含む)取り締まり強化論。
 「日本はもともと性におおらかであった」とは、近年あちこちで聞かれる意見である。確かに時系列的に言えば、近代明治以降に一夫一妻制、処女崇拝、同性愛蔑視など、キリスト教的な性モラルが日本社会に定着していったと言えるかもしれない。が、キリスト教を待つまでもなく、儒教にも性モラルはある。
 江戸時代には、儒教思想の普及にともない、女性に対する貞操教育が盛んになった。不倫も特に忌まれたが、ただ江戸時代の密通にせよ、明治時代の姦通罪にせよ、基本的に夫の貞操権(配偶者が自分以外の人間と性的関係を結ぶことを禁ずる権利)を保障するばかりで、妻の貞操権は想定していない。
 息軒が、既婚女性と不倫した男性を処罰対象としていることは明らかだが、未婚女性と関係を持った既婚男性に対してどう考えていたのか、今ひとつよく分からない。ただ全体の語調として、男性側にも性モラルを強く求めていることはうかがえる。

閨門について。
 今文《孝経》には〈閨門章〉第十九「子曰、閨門之内、具禮矣乎。嚴親嚴兄。妻子臣妾、繇百姓徒役也」とあるが、古文《孝経》に〈閨門章〉はない。中国では唐代を境に古文《孝経》は滅んだが、日本では長く残り、江戸時代に太宰春台が編纂した《古文孝経孔氏伝》は中国に逆輸入された。
 ただ息軒の最後の直弟子である松本豊多《孝経定本》は今文《孝経》を定本とし、〈閨門章〉を含まない。恐らく息軒も〈閨門章〉を容認していなかった可能性が高い。


 《新律綱領》について。(※以下で述べるのは当座の雑感に過ぎない。学術的な裏付けはない。)

 《新律綱領》は、明治新政府が明治3年(1870)に公布した刑法である。明治新政府の当初のキャッチコピーが「王政復古」であったこともあり、日本の《養老律令》、中国の明律・清律を参考にして制定されたため、五刑(笞・杖・徒・流・死)や潤刑があった。
 明治15年(1882)の《旧刑法》の施行に伴い廃止されたが、《旧刑法》が御雇外国人ボアソナードの草案を叩き台とし、フランス刑法典の影響が色濃かったのに対して、《新律綱領》には西洋法の影響はほとんど認められない。

 明治の近代化は西洋化と同義に解釈されがちだが、一概には西洋を以て範としたとはいえない(と思う)。筆者の見る所、明治1年(1868)の倒幕、明治6年(1873)の岩倉具視使節団帰国(と不平等条約改正失敗)、明治14年(1881)の「国会開設の詔」(と自由民権運動の暫定勝利)をそれぞれ分水嶺として、段階的に展開している。
 これを仮に1期、2期、3期と呼べば、1期(倒幕から岩倉具視帰国まで)は西洋化というよりは、中華帝国をモデルとした儒教帝国化が図られたと見てもいいように思う。上記の《旧刑法》の草案起草が御雇外国人ボアソナードに命じられるのは明治6年つまり2期のことで、その施行は3期のことである。
 幕末から1期終わりにかけては、確かに儒教が政治制度改革を主導していたといえる。実際、明治初期の主要な改革(廃藩置県、四民平等、学制、徴兵制、廃仏毀釈など)は、すべて儒教思想・中華帝国化で説明できる。だが、2期に入って西洋の政治制度に関する研究とその導入が本格化すると(=それもまた華夷思想の応用といえるが)、儒教に対する政治学としてのニーズは後退し、個人の修養・倫理学・哲学としてのニーズが広まる。
 息軒が奉ずる古学は、儒教の中でもひときわ功利主義的で政治的色彩が強く、それゆえ1期までは隆盛を誇った(。逆に言えば、徂徠の死後、古学が衰退するのは、古学が功利主義から適材適所を唱えるのみで、当時の幕藩体制が求めていた「社会の一体化」を実現するための統一教義の雛形を提供しなかったからであろう)。だが、2期に入ると儒学に求められる役割は、押し寄せる西洋的価値観に抗して東洋的価値観を背負って立てるだけの「深遠なる哲学理論」となり、儒教の中で古学は朱子学にシェアを奪われていく。さらに3期に入って東京大学に支那哲学(1881)が新設され、東西哲学の融合などが図られだすと、朱子学がその性理学によってカント哲学と対比されるのに対して、「哲学」的な議論を提供しない古学はアカデミックな考察対象から外れていく。息軒の思想が忘れられていく原因の一つがここにある。

 特に3期の「国会開設の詔」は、政治学としての儒教にとどめを刺したといって良い。儒教の政治理論は、相対評価で全人口の上位5%を占めるエリートだけが参政権を有し、彼らが寡占的に国家を主導する政治体制を前提とする。皇帝が独占的に裁決を取る点は実はさほど重要ではない(と思う)。これが貴族制と異なるのは、トップエリートへ至る道が例えば科挙などによって万人に対し開かれていることだ。
 選挙制度は、その逆に絶対評価で一定の条件(文字の読み書きができるとか、納税しているとか)を満たしたもの全員に参政権を与える。行政機構はエリート主義で構成・運営されていても、究極的には政治意志が学識面でも道徳面でも決して優位に有るわけでもない人民の掣肘を受け得る制度というのは、儒教の対局にある。
 かくして儒教は政治の最前線を離れ、天下国家よりも個人の修養や倫理観を云々する学問となっていく。服部宇之吉が「孔子教」を提唱するのも、そうした流れだと思う。 

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