安井息軒《救急或問》22

(20頁)

一物價沸騰ハ一國ノ力ニテハ止メガタシ、其患ヲ防クハ人間必用ノ品、國中ニ產シ他ニ求メズシテ足ル樣ニ心掛クベシ、鹽ハ沙ノ善惡ニ因テ多ク付ト少キトノ違ヒアレ共、沿海ノ地ニ產セザル處ナシ、其道ニ委敷者ヲ傭ヒテ、鹽濱ヲ開クベシ、石炭ニテ

(21頁)

燒ケバ費ヘ過半減ズレ共、氣味薄シ、試ミテ其宜キニ從フベシ、茶ハ山僻ニ宜シ、蠟ハ海邉ニヨロシ、此ノ二種ハ皆西國ノ產ヲ善トス、燈油ハ茶・椿・山茶花(さざんか)・毒荏(どくえ)【①】・鈴ツヱ【萬兩ノ實ノ如クシテ大ナリ、大木ニシテ枝脆シ、葉ハ椿ニ似テ長ク薄シ、ヒヨ鳥ノ好ミテ食フ物也。】【②】〔・〕醬油ノ糠何レモ油ヲ絞リ能ク出ヅル物ナリ〔、〕伊豆ニテハ棗實ニ似テ綠色ナル物ノ油ヲ取ル木モ棗ニ似タリ、名ヲ聞キシカ共忘レタリ、委シク吟味セバ猶此外ニモ有ルベシ、但シ醬油糠油ノ外ハ皆毒アリ、揚物ニハ用ヰ難シ。

注釈:
①毒荏:油桐の別称。中国原産で古くに日本に入った。種子を絞れば桐油が採れる。
②鈴ツヱ:未詳。「萬兩ノ實」云々は底本に付された双行の注釈。

意訳:〔日本全国津々浦々まで物流ネットワークが構築されている現在(※江戸時代)、開国に端を発する全国的な物資不足とそれが引き起こした〕物価高騰【①】は、もはや一藩の力で押し止めるのは難しい。〔この状況に対して藩レベルで可能なのは、備えておくことだけだ〕。物価高騰から生じる悩みを防ぐには、世間一般の日用必需品だけは、領内で生産できて他藩に求めずとも足りるように心掛けておく必要がある(=日用必需品さえ、輸入に頼らず国産だけでまかなえるようにしておけば、社会的混乱は防げる。)

①物価高騰は、本書冒頭で質問者が提議した話題である。
 〔たとえば〕塩は、塩田を設ける砂浜の砂質の善し悪しによって、砂一粒に付く塩の量に多い少ないという違いはあれども、沿海地方で生産できないところはない。その道に詳しい人物を雇って、塩田を開設するべきである。

   〔塩砂を集めて海水で洗って濃縮された塩水を作り、それを製塩釜で煮詰めて結晶化させる際に、薪ではなく〕石炭を焼いて煮詰めればコストは半分以上カットできるが、完成した塩はやや風味が薄くなる。〔薪と石炭をそれぞれ〕試してみて、コストと品質の折り合う方を選べばよい。
 〔このほか〕茶の栽培は山奥の僻地に適している。木蝋〔の原料となるハゼノキの栽培〕は海辺に適している。この二つはみな西国(九州)産が品質が良いとされる。
 〔行灯などに用いる〕灯油(ともしあぶら)は、茶・椿・山茶花(さざんか)・毒荏(どくえ)・鈴ツヱ(息軒注:色や形は万両の実のようで、それより大きい。大木で枝が脆く、葉は椿に似て長く薄い。ひよ鳥が好んで食べる)・醤油の糠など、いずれも絞ればよく油を出す。
    伊豆諸島では棗の実に似て緑色をした実で油を取り、その木も棗の木に似ているのだが、名前を聞いたのに忘れてしまった。詳しく調べれば、この他にも油が採れる物はあるはずだ。

    ただ醬油と糠油の外はみな毒があるので、揚げ物に使用するのは難しい。

余論:息軒によるインフレ対策論。息軒の意を汲んで補足説明すれば、幕末期の物価高騰は開国によって引き起こされた構造的な現象であり、一藩の経済政策で改善できるようなものではない。

構造的というのは、開国によって国内の物資が海外へ輸出され始めた結果、物資不足が生じ、260年間平衡を保ってきた国内市場の需給バランスが急速に崩れたことを意味する。当時の日本が輸出していたのは第一次産品ばかりであるから、需要があるからといって、一朝一夕で増産できる性質のものではない。

そうした状況のなか、息軒が提言するのは、塩・灯し油・茶・木蝋などの日用必需品だけは自領内で需要を満たせるようにしておき、せめて社会的混乱(患)だけは防ごうというものである。

息軒の「人間必用ノ品、國中ニ產シ他ニ求メズシテ足ル樣ニ心掛クベシ」との提言は、2020年コロナ禍以前であれば、つまり国際的サプライチェーンが問題なく機能していた時代であれば、化石のような経済政策として一笑に付されて終わったことだろう。

 しかし、新型コロナウイルスの感染が急速に拡大するなかで、中国がマスクの海外出荷を差し止めた瞬間、たちまち日本国内でマスク不足が生じ、マスクの買い占め・高額転売が社会問題化するのを目の当たりにした今、これを「時代遅れ」と笑える人間はいないだろう。
 むしろ今回のコロナ禍を教訓として、日本や欧米各国の政府は、医療関連品をはじめとする日用必需品の海外生産を見直し、生産工場の国内回帰を進めている。まさに「人間必用ノ品、國中ニ產シ他ニ求メズシテ足ル樣ニ心掛クベシ」である。

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