安井息軒《時務一隅》(六)後段c・完結

30-01 巷說にて承り候へば、中山大納言殿の元家來、田中河内介と申す者、某中將の旨趣を奉じ、聖輿親征の勅旨を書き取り、同志の者に相ひ渡し、中國・九州筋を遊說致させ候ふ由、今上皇帝には、叡明に渡せられ候ふ由、右體輕卒の義仰せ出され候ふ筈、決して之れ無く、某中將は如何成る人物に候ふや承らず候へ共、全體此れ等の儀は、身の置き所なき浪人・亂民等の致す事にて、官祿ある人の爲す所にあらず、定めて某中將の事も、詐謀より出候ふ事と存じ候ふ。

意訳:巷(ちまた)の噂でお聞き申し上げましたのですが、〔今上天皇(=孝明天皇)の岳父(=明治天皇の母方の祖父)でいらっしゃる〕中山忠能(1809-1888)大納言殿の元家来で〔春宮(=明治天皇)の幼少期のお守役を務めていた〕、田中河内介と申す者が、某中將(=中川宮こと久邇宮朝彦親王か?)のお気持ち(旨趣)を掲げて、天皇親征(聖輿親征)の勅旨【★】を書き取り、同志の者に渡して〔"義挙に参画し、ともに朝敵を討とう”と〕中国地方から九州方面を遊説させましたとのことで、今上天皇(=孝明天皇)にあらせられましては、ご叡明でいらっしゃられますとのことで、右のような軽率な事はお申し付けに成られますはずは決して無く、某中將がどういった人物でありますかお聞き申し上げていませんけれども、総じてこれらのことは、居場所のない浪人や社会の安寧秩序を乱す人民(乱民)などがいたしました事で、〔公家として朝廷より正式に授かった〕官位や爵祿(官祿)を有する貴人がしたことではなく、きっと某中將の事もいつわりのはかりごと(詐謀)より出ました事と存じます。

補注:
「勅旨」とは天皇の勅書(命令書)の一つで、私的な雑事を命じる際に用いる形式。なお内密に出されたものは密勅、それが非公式であれば内勅、口頭で出されたものは勅語という。詔勅と総称するが、"臨時の大事は詔、尋常の小事は勅”と大きく区別される。また詔勅は太政官での正式な手続きが必要だが、綸旨は天皇が口頭で発した命令を蔵人が書き取ってそのまま出された。

余論:息軒による「寺田屋事件」(坂本龍馬襲撃事件とは別)の解説。
 ここでいう寺田屋事件とは、旅館寺田屋に集結していた尊皇倒幕派の薩摩藩士らを、薩摩国父島津久光が朝廷の命令を受けて処断した事件。田中河内介なる人物が首謀者とされる。息軒も、公家の関与はなかったとする。

 田中河内介(1815-1862)は、幕末の儒者であり攘夷志士。尊攘派の薩摩藩士と組んで、公武合体を推進する京都所司代酒井忠義と関白九条尚忠への襲撃を計画するも、薩摩国父島津久光による「寺田屋事件」で頓挫。この際、中川宮の名を出して、偽造した勅書と錦の御旗を使って同志を集めた。

 田中河内介は医者の次男だったが、儒者を志して上京し、やがて公家で孝明天皇の岳父=明治天皇の母方の祖父である中山忠能に仕え、後には幼少の明治天皇(1852-1912)のお守役を務めた。しかし、その尊王思想ゆえにーー彼に限らず儒者は総じて尊王派ーー、公武合体運動を推進する中山忠能と袂を分かつ。その後、中村貞太郎(北有馬太郎)と義兄弟となり、清河八郎とも交流し始める。
 先にも書いたが、この中村貞太郎は安井息軒の弟子であり、息軒の長女須磨子の配偶者(再婚相手)であり、息軒の外孫(養子)安井小太郎の実父であり、清河八郎の逃亡を幇助した咎で捕縛され、文久2年(1862)6月、すなわち息軒がこの《時務一隅》を執筆していた頃と前後して、獄死した。なお安井小太郎は、そのころまだ母須磨子の胎内にあった。

 さて、田中河内介は尊王攘夷派の薩摩藩士らとともに、島津久光の上洛に合わせて、公武合体論の首魁である京都所司代酒井忠義と関白九条尚忠を暗殺する計画を立てる。その際に、田中河内介が「陰謀の宮」こと中川宮の意向を騙り、さらに偽の勅旨と錦の御旗を使ったことで大事になった(が、結局、田中河内介の詐話ということで決着をみる。)
 結局、この計画は、田中河内介ら尊王派が倒幕の旗手として(勝手に)期待を寄せていた島津久光の手によって、頓挫する。事件後、田中河内介は薩摩藩へ護送される途上、船上で惨殺され、死骸は海中へ投棄された。なお田中河内介は、維新後、正四位に叙せられた。
 全くの余談だが、この寺田屋事件を制圧した帰路、島津久光はかの生麦事件を起こす。


30-02 其の證は去る四月廿三日、薩州人伏見に於ひて同士打ちいたし候ふ本を尋ね候ふに、右河内介、浪人共を誑惑致し、錦の御旗一流は、旣に禁裏より島津和泉に下し置かれ、今一流は、浪人衆へ御渡しに御決著に相ひ成り候ふ間、速やかに所司代を打ち取り候ふ樣申し聞こえ候ふより起こり候ふ事の由、誠に變詐不測の曲者(※クセモノ)に候ふ間、其の申す所、一事も信用に成り難く候ふ。然らば某中將の旨趣と申し立て候ふも、人を欺き候ふ詐謀に相違之れ有るまじく候ふ。

意訳:その証拠に去る〔旧暦の〕4月23日に、薩摩の人間が京都の伏見において同士討ちをいたしました原因を尋ねますに、右の田中河内介が浪人ども騙してたぶらかし(誑惑)、「錦の御旗」の一流(※「流」は、旗の数量詞)は、すでに禁裏より〔現将軍家茂公のご母堂である天璋院(篤姫)様の実兄である〕今泉藩主島津忠敬(1832-1892)にお与えになられており、もう一流は浪人たちへお渡しになることをご決定になられましたので、速やかに京都所司代酒井忠義(1813-1873)を討ち取りますよう申し上げましたことより起こりました事とのことで、〔この田中河内介という男は〕本当に巧みな嘘で人を騙すこと予測不可能(變詐不測)な曲者でありますので、その者が申すことは、一つとして信用しがたいです。そうであるならば、「某中將のお気持ち(旨趣)」と申し立てますのも、他人を欺きます詐りのはかりごと(詐謀)に相違ないはずです。

余論:息軒による寺田屋事件の解説。
 息軒の地元である飫肥藩は、この寺田屋事件後、京都の動向を図るべく、稲津済を調査のために京都へ派遣している。稲津済は三計塾の塾生でもあったから、息軒がいう「巷説」とは、江戸藩邸にかれこれ10年以上滞在している藩主伊東祐相に報告するべく江戸へ戻ってきた稲津済より得た、事件に関する情報ではないか。
 なお息軒は40歳の頃に藩職を辞して江戸へ出てきたが、別に脱藩とかしたわけではなく、円満退職だったので、江戸へ出た後も藩籍は飫肥のままであり(たぶん江戸へ来てからも、飫肥藩からは俸禄が支給されていた可能性がある。待考)、江戸の飫肥藩邸へ出入りし、藩主伊東祐相に講義をしたりしていた。
 文久2年4月に京都へ出向いた稲津済は、そもそも彼自身が清河八郎の親友だったことを考えれば当然の帰結だが、京都では倒幕派の公家らと交流を持ち、飫肥藩主を上洛させる約束をして江戸藩邸へ戻る。そして翌年文久3年7月、飫肥藩主伊東祐相が上洛して天皇に謁見し、内勅を賜る。
 時を置かずして、息軒も昌平黌儒官を辞す。


30-03 愈々巷說の如く候へば、此の者幷びに外三、四人の者共は、上は勅旨を矯(いつわ)り、次は幕府に反し、中は卿相を誣(し)ひ、諸侯を誑(あざむ)き、下は士民の心を惑亂し、此の上もなき罪人に候ふ間、其の罪を明白に書き取り、不赦の料に差し置かれたく候ふ。此くの如く御處置に成られ候はば、恩威並び行はれ、御盛德の事と存じ奉り候ふ。

意訳:さらに巷(ちまた)の噂によりますと、この〔田中河内介と申す〕者ならびに他の三、四人の者どもは、上は今上天皇の命令書(勅旨)を偽造し、次は幕府に造反し、中は〔某中将なる〕公卿をでっち上げ(誣)、諸侯をあざむき、下は武士や人民の心を冷静な判断ができないほどに乱した(惑乱)、この上もない罪人でありますので、その罪をはっきりと文書にして、そのまま大赦の適用外とする罪状(不赦の料)に差し置いていただきたいです。このようにご処置になられましたら、幕府の恩恵と威光(恩威)が同時に行われ、〔徳川家の〕ご立派な徳(盛德)に相応しい事だと存じ上げます。(完)

余論:《時務一隅》の締めくくり。
 息軒が《時務一隅》を書いた頃、上述のように稲津済は京都の倒幕派公家から藩主の上洛を迫られている。

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