安井息軒《時務一隅》(四)後段a

16-01 民間衰微致し、荒地多く相ひ成り候ふ根元は、御府內戶口相ひ增し候ふと、勝手に出家致し候ふとの二つに起こり申し候ふ。
 往古は漢土の法に效ひ、出家致し候ふ者には、必ず「度牒」を渡され、出家致し候ふ事に御座候ふ。然れども度牒容易に相ひ渡さず、廿五歳まで、道心堅固に相ひ勤め候ふ者、師より其の段書き取り願書吟味の上、相ひ違ふ無く候へば、度牒相ひ渡る事に御座候ふ。其の後二十歳にて御渡しに相ひ成り候へ共、道心の吟味如何にも行き屆き候ふ故、僧徒の身持ち宜しく、其の口數少なく候ひて、天下の害甚だしからず候ふ。

意訳:現在、民間が衰微し、〔放棄されて〕荒地〔と化した田畑〕が多くなっております根源は、江戸府內の人口が増えます事と、勝手に出家いたします事との二つから起こり申します。

 大昔〔、律令時代の日本〕は中国の法典《唐律》に倣って、出家いたします者には、必ず〔朝廷の太政官が僧侶の身分証である〕「度牒」をお渡しになり、〔朝廷から「度牒」を取得して初めて正式に〕出家をいたしました事になったのでございました。しかしながら「度牒」は容易には渡さず、25歳まで信仰心(道心)を堅固に守って修行に勤めてきました者が、師匠よりその旨を書いてもらった願書を〔役所に提出し、役所のほうで願書の記載内容を〕調査・確認の上で、〔記載内容が事実と〕相違ありませんでしたら、ようやく「度牒」が彼の手元に渡る事になるのでございます。その後、20歳でお渡しになるようなりましたけれども、〔僧侶希望者の〕信仰心(道心)の強さに対する調査はいかにも行き届いていましたから、僧侶の品行(身持ち)はよく、〔生産活動に従事しないとはいえ、〕その人数(口數)も少なくて、社会に及ぼす弊害もそこまで酷くありませんでした。

余論:「度牒」は、政府機関が発行する僧侶の身分証である。仏教は後漢(25-220)の末期に中国へ伝来したが、「度牒」は北魏(386-534)で始まった。その後、唐律を経由して日本へ伝わり、《養老律令》に組み込まれ、太政官が発行を担当した。ただし朝廷と結びつきの強い奈良律宗や平安密教と違い、武士や平民を中心とする鎌倉新仏教は、教団が独自に「度牒」を発行した。
 だが、僧侶には納税や賦役の義務が免除されたほか、様々な優遇処置を得られたため、二条河原落書に謳われたように、それを目的に僧侶を騙る「自由出家」が横行した。江戸幕府は「度牒」の発行は行わなかったものの、ただ各宗派の本山にのみ「度牒」の発行を許可することで統制を図った。

 息軒が理想化して語る「往古」とは、政府のみが「度牒」を発行していた平安以前の状況である。ただし、当時の仏教は貴族の独占物であり、寺院も少なく、僧侶の需要も限られていたからこそ、朝廷による一括管理が可能だったという側面は無視され、朝廷が管理していたから僧侶の数が少なかったと、因果関係を逆転して捉えている。
 (日本で仏教が民衆に解放されるのは、平安末期の法然を待たねばならない。)


16-02 今日に至ては、八宗の寺數、四十八萬に餘り、大小平均致し、一寺に僧侶三人と積り候ひても百四十八萬人に相ひ成り、誠に夥しき事に御座候ふ。右僧侶に使はれ候ふ者相ひ加ヘ候ひては、耕さず織らずして、美服珍食致し候ふ者、二百四五十萬に及ぶべく、此の者共の衣食住、殘らず民力より出で候ふ。四民困窮致し候ふ儀、尤もの事に御座候ふ。

意訳:今日に至っては、〔日本にある大乗仏教の全宗派、すなわち法相宗・禅宗・密宗・法華宗・天台宗・三論宗・律宗・華厳宗の〕八宗の総寺院数は48万寺あまり、規模の大小を平均化いたしまして、一つの寺に僧侶3人と見積もりましても、全国で148万人にもなり、まことにおびただしい事でございます。さらに右の僧侶に使はれます寺男や小僧といった者たちを加えますと、畑を耕さず機(はた)を織らず〔生産活動に一切従事することなく〕して、美しい衣服を着て珍味を食します者は、240~250万人にも及ぶに違いなく、この者どもの衣食住は、残らず人民の労働力(民力)より出ています。〔総人口2600万人の1割がこの仏教関係者なのですから、士農工商の〕四民が〔いくら真面目に働いても〕生活が困窮いたします件は、もっともな事でございます。

余論:息軒によるフェルミ推定。フェルミ推定とは、実際に調べることが難しい捉えどころのない数量を、いくつかの手掛かりから論理的に推論し、概算すること。ここで息軒は全国の僧侶の総人数を148万人、小僧や寺男などを加えた仏教関係者の総人数を240~250万人と概算する。


16-03 殊に古は佛法歸依の者、心次第に、僧徒に供養致し候ふ事に之れ有り候ふ處、耶蘇教御禁制の後は、宗門改と申す事相ひ始まり、天下の人、一人も佛法に歸せざる事相ひ成らず、貪婪無智の姦僧、其の勢ひに乘じ、葬式又は宗門改の節、種々難澁を申し立て、民財を貪り取り、己が酒食の用に當て候ふ等、誠に見聞に忍びざる行多く候ふ。是れ全く僧徒の御制法相ひ立たず、其の數多く、其の行正しからざる處より、用度不足致し、右體民間の難儀と相ひ成り申し候ふ。

意訳:とりわけ昔は、仏教に帰依した者たちは、本人の気持ち次第で、僧侶に食べ物や金品を喜捨(供養)いたしましたのでありますけれど、キリスト教をご禁制になった後は、「宗門改」と申します事が始まり、日本社会(天下)で暮らす人は一人として仏教に帰依しないわけにはいかなくなり、欲深で物知らず(貪婪無智)の破戒僧(姦僧)がそうした情勢に乗じて、葬式または宗門改の際に、檀家に向かって様々な難渋を申し立てて〔暗にお布施を要求し〕、人民の財産を貪り取り、自分たちの酒食の費用に当てますなど、誠に聞くに耐えない行状が多いです。
 これは僧侶を統制する法令が全く立っておらず、僧侶の数が多く、その行状が正しくないことより、寺院の運営予算が慢性的に不足いたし、右のような民間にとっての面倒事となっております。

余論:息軒による日本仏教が世俗化した原因分析。
 島原之乱の後、江戸幕府はキリスト教禁令の一環として、寺請制度・檀家制度を布いて、全人民に対して在郷の寺院の檀家となることを義務付けた。寺社はそれを証明する寺請証文を檀家に発行した。この証文がなければ「宗門別人改帳」から削除され、透明な存在(無宿人)となって社会から孤立してしまうので、寺院は信徒に対して絶対的に優位な立場をもった。それが汚職などの温床となった。

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