安井息軒《救急或問》31

(26頁)

一刑罰ノ備ハラザルヿ(こと)、今日ヨリ甚ダシキハナシ、死罪ノ次ニハ過料【①】ト追放ノ二アリ、追放ハ戦國ノ餘習ナリ、一錢ノ蓄ヘナキ惡人ヲ境外ニ追拂ヘバ、其日ヨリ惡事ヲ爲サザレバ食フヿ能ハズ、是レ隣國ヲ以壑【②】ト爲スノ類ニテ、其罪人モ死一等ヲ宥(なだ)ムト云

(27頁)

フトモ、重子(ね)テ之ヲ死罪ニ陥シイルハ不仁不義ノ甚シキナリ【③】、過料ハ古ノ贖刑【④】ナリ、法ニ叶ヘルヿ勿論ナレドモ、此罰バカリニテハ富メル者ヲ懲スニ足ラズ〔、〕笞【⑤】・徒【⑥】・黥【⑦】ノ三法ヲ復スベシ、笞ハ鞭打ナリ〔、〕圍二寸長三尺五寸ノ竹ニテ臀ヲ打ツ、其數五十・七十・一百ノ三等ニ分ツ、徒ハ作役ナリ〔、〕普請其ノ外勞役ノ事ニ使ヒ、百姓ノ肩ヲ休ムルノ助ケトス、亦タ一年・二年・三年ノ三等ニ分ツ、使役スル時ハ、日ニ五分【⑧】ノ作料ヲ與フ、内二分ヲ渡シテ小使トシ、三分ヲ留メテ後日期滿ツル時ノ元手トス、黥ハ入レ墨ナリ〔、〕額ニ黥スベシ、黥セシ者再犯スレバ死罪ナリ、婦人ハ黥セズ藩士ニ賜ヒ下婢トス、命ヲ用ヰザル時ハ、笞・杖・生殺主人ノ心ニ任ス、他ニ賣與フル時ハ、官〔ニ〕【⑨】達シテ其ノ直三分ノ二ヲ進納ス、徒罪ハ宮中舂【⑩】水【⑪】等ノ勞役ニ使フ、作料ハ一日三分タルベシ、藩士ハ三刑ニ代ルニ、逼塞蟄居ヲ以テシテ其廉恥ノ心ヲ養フ亦百日・一年・二年ノ三等ニ分ツ、但シ淫刑【⑫】ハ笞ヲ與フ、其ノ下賤ノ行ヲ爲スヲ以テナリ。

注釈:
①過料:罰金刑
②壑:深い谷、溝。平安時代には、庶民は埋葬が許されず、専ら死体を野ざらしにして風化させる風葬を行っていた。京都の「清水の舞台」は、眼下の谷へ死体を投げ捨てるために、あのように張り出して作られたという説がある。
③《孟子・梁惠王上》〔孟子〕曰「無恆產而有恆心者、惟士為能。若民、則無恆產、因無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不為已。及陷於罪、然後從而刑之、是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可為也」。
④贖刑:中国の伝統的な財産刑。金品を収めて罪をあがなう。中国では秦律にすでにその存在を確認できる。
⑤笞:笞刑(ちけい)。体刑の一種で、違反者を鞭で打擲する。中国の唐律に五刑(笞・杖・徒・流・死)の一つとして規定されており、日本の大宝律令・養老律令にも導入された。しかし兼好法師《徒然草》には「犯人を笞にて打つ時は、拷器に寄せて結ひ附くるなり。拷器の様も、寄する作法も、今は、わきまへ知れる人なしとぞ」とあり、鎌倉時代には公式の執行方法は分からなくなっていた。江戸時代に、8代将軍徳川吉宗が公式の刑罰として笞刑を復活させ、明治政府にも継承された。ただ明治政府は、文明的でないという理由で、明治6年6月(1873)に懲役刑に置き換えることを決め、明治7年に廃止された。が、後に台湾や朝鮮半島の総督府は、現地法として笞刑を復活させた。
⑥徒:徒刑(ずけい)。自由刑の一種で、受刑者を一定期間拘禁して労役に服させる。唐律の五刑の一つであり、日本へは律令時代に導入されるも、囚人が逃げないように管理するのにコストがかかることから次第に廃れた。江戸時代中期に肥後(熊本)藩が明律・清律を参考に徒刑を復活させると、やがて諸藩に広まった。
⑦黥:黥刑(げいけい)。身体刑(肉刑)の一種で、犯罪者に入れ墨を施して見せしめとする。唐律の五刑には含まれないが、 《尚書・呂刑》の五刑(墨・劓・剕・宮・大辟)には含まれる。日本では律令時代に廃止されたが、江戸時代中期に復活した。
⑧五分:恐らく銀5分で、大工の日当の10分の1に相当。
⑨ニ:底本は空白に見えるが、恐らく印刷の不備だろう。文脈より補う。
⑩舂:穀物を𦥑に入れて杵で付くこと。
⑪水:水汲み、水仕事。
⑫淫刑:「淫刑」という言葉は、本来は不当な刑罰や為政者がみだりに刑罰を執行することを意味する。だが息軒は、ここでは性犯罪・不義密通の意味で使っているようである。第32節を参照。

意訳:刑罰が不備であることは、今日(※江戸時代)より甚だしい時代はない。現代(※江戸時代)では、死罪の次には罰金刑(過料)と追放刑の二つがあるだけだ。

 追放刑は戦国時代の名残である。だが一銭の貯金もない犯罪者を領外に追い払えば、その犯罪者はその日より悪事を働かなくては食べていくことができない。これは隣藩(隣國)をゴミや死体を投棄するる谷(壑)とする類の行為で、その罪人も死一等を免じたといっても、すぐ罪を重ねざるを得ない状況に追い込んで、最終的に死罪に陥れるのは、不仁・不義の甚だしいものである。【★】

 罰金刑(過料)とは昔の贖刑(=財産刑)のことである。適法であることは勿論だが、この刑罰だけでは富裕な者を懲らしめるに足りない。笞刑・徒刑・黥刑の三法を復活させる必要がある。

★この段は、有名な「恒産なくして恒心なし」(《孟子・梁惠王上》)の逸話を踏まえている。孟子は齊宣王の諮問に答えて、“人民は安定した収入源なしに道徳心を保つことなどできません。陛下が人民の貧困問題を解決せずに、治安維持を理由に取り締まりを強化するだけだとしたら、それは人民が犯罪に手を染めざるを得ない状況に追い込んでおいて片端から逮捕しようというようなもので、言ってみればあらかじめ木々の間に網を張っておいて動物をその方角へ追い込んで捕まえる猟法で、人民を罠にはめる行為に他なりません”と言っている。
 笞刑とは鞭ち打ちである。太さ周囲6cm(2寸)、長さ1m強(3尺5寸)の竹竿で臀部を打擲する。その回数は50回・70回・100回の三段階に分ける。

 徒刑とは労役刑のことである。土木建築など屋外での労役に使役し、従来土木事業に駆り出されてきた百姓たちの負担を減らす助けとする。また刑期は1年・2年・3年の三段階に分ける。なお使役する時には、一日に銀5分の手当を支給する。その内銀2分は日々の小遣いとしてその場で手渡して、残りの銀3分は渡さず残しておいて、後日刑期が満了した時に受刑者が再出発するための元手とする。

 黥刑とは入れ墨のことである。衣服の袖に隠れる腕ではなく、額に入れ墨をするのがよい。入れ墨された者が再犯すれば死罪である。
 ただし女性は入れ墨はせず、その代わりに自由民の資格を剥奪して奴隷の身分に落とし、藩士に下女(下婢)として与える。この下女となった女性受刑者が主人たる藩士の言いつけ(用名)に従わない時は、笞刑・杖刑・生殺如何は主人の判断に任せる。もし主人がこの下女を他人に売り渡す時には、役所に通達して売値の3分の2を国庫に納める。
 また女性の徒罪(労役刑)は、屋外での土木作業ではなく、城内で穀物を臼に入れて杵でつく作業(舂)や水汲み・水仕事(水)などの力仕事に使う。手当は、屋外での土木作業に比べれば楽で安全なので、1日銀3分とするのがよいだろう。
 藩士の場合は笞・徒・黥の三刑に代えて、自宅の門扉を閉ざして日中の出入り禁止し(逼塞)、さらに本人は一室に謹慎させる(蟄居)事でもって、当人の”恥を知る(廉恥)の心”を涵養する。これもまた謹慎期間を100日・1年・2年の三段階に分ける。
 ただし藩士といえども、性犯罪(淫刑)を犯した場合は笞刑に処す。武士にあるまじき下賤な行為をしたのだから、武士として処罰する必要がない。


余論:
息軒の刑法改革論。当時の刑罰が、死刑・罰金刑・国外追放の三つしか無かったため、新たに体罰・労役刑・肉刑(入れ墨)の三つを復活させることを提言する。

 息軒によれば、罰金刑の問題点は、富裕者に対する犯罪抑止効果が薄いことである。国外追放の問題点は、犯罪者が更生の機会を得られず、最終的にどこかの国で死刑に処せられるのは避けられず、息軒は孟子の「恒産なくして恒心なし」を踏まえて、為政者の怠慢だと弾劾する。

 要するに、息軒は罰金という軽い刑罰と、流罪・死罪という重い刑罰の両極端しかないことを問題視している。笞・徒・黥の三つは、罰金刑と追放刑の間を補い、罰金で済ませるには悪質だが、さりとて国外追放にするほどでもないという犯罪に対応する刑事罰なのである。
 ただ息軒の提言を待つまでもなく、笞刑は徳川吉宗によって公式の刑罰として復活しており、黥刑も「墨刑」という名称で江戸時代中期に復活している。徒刑も、江戸時代中期から導入する藩が現れている。

 注目すべきは、まず労役刑(徒刑)において日当が支給され、その6割を積み立てておいて刑期明けにリスタートの資金として還付する仕組みがあることだ。単に犯罪者に懲らしめるというだけではない、「犯罪者の更生」を視野に入れた改革案である。

 二点目は、男女で量刑に違いを設けていることだ。男性受刑者が屋外で危険な土木事業に従事するのに対して、女性受刑者は城内の作業に従事する。また女性は入れ墨を入れない代わりに、自由民としての資格を剥奪され、売買可能な下婢の身分に落とされる。

 三点目は、武士を三刑の対象外としていることだ。これは儒家に普遍的な法理論で、《禮記・曲禮上》の「禮は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」を踏まえる。また《孟子・梁惠王上》にも「恆產無くして恆心有るは、惟(た)だ士のみ能くするを為す」とあり、知識人・読書人たる者が軽々しく犯罪に手を染めたりするわけがないと、見なされていた。
 じゃあ武士はやりたい放題かといえばそうでもなく、疑惑をかけられた時点で、疑いを招いた事自体を恥じ入って自殺(中国なら服毒、日本なら切腹)しなければならない。
 ただ息軒は武士が罪を犯す可能性を排除しているわけではなく、武士であっても性犯罪に関しては平民と同じ様に処罰せよという。

「日ニ五分ノ作料」について。
 江戸時代の貨幣には金(小判)・銀(銀子)・銅(銅銭)の三種類があり、それぞれ金=1両=4分=16朱、銀=1匁=10分、銅=1貫=1000文という単位があった。金銀銅の交換比率はその時々の相場で変動しており、そのおかげで日本は開国後にすんなり国際為替相場に入っていけたといわれるが、だいたい金1両=銀60匁=銭6貫に相当した。

 江戸時代の大工の日当が銀5匁4分=銀54分ぐらいだったので、息軒がいう徒刑者の日当5分とは、土木建築作業現場における日当の相場の10分の1ぐらいと想定していいのではないか。大工は技術職であり日当も割高であったろうから、一般の現場作業員の日当との格差はもっと小さいのかもしれない。

 小遣い銀2分でどれくらいの贅沢ができたかといえば、江戸時代後期の物価では酒1升が銅200文だったので、銀60匁=銀600分=銅6貫=銅6000文とすると、毎日仕事終わりに銀2分の小遣いが貰えれば、晩酌に酒1合を付けることができたと思う。


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