安井息軒《救急或問》17

(15頁)

一我國ノ風俗、萬國に勝レタレ共、老人ヲ貴ブヿハ、漢土ニ及バザルヿ遠シ、教ノ届カザル故ナリ、此弊ヲ改ムルニハ、養老ノ禮【①】ヲ始ムベシ、藩士七十以上ハ一口俸ヲ賜ヒ、春秋時候宜敷時ヲ擇ビ年ニ一度宴ヲ賜フベシ、遠方又ハ歩行難儀ノ者ハ、籃輿ヲ賜ヒ、難步ノ者ハ、本丸門外迄乗込マシムベシ、病アル者ハ酒食ヲ家ニ賜フ、初獻ハ君親ラ酌デ賜フ、君在ラザル時ハ、宗室又ハ大夫之ニ代リ、齒ハ天下達尊【②】ノ一ナリ、養老ハ齒ヲ尊ブノ禮ナレバ、爵ノ尊卑ニ拘ルベカラズ、目見以下ノ者タリトモ相待ツノ禮ハ同樣タルベシ、盃三巡ノ後ハ、各〻昔ノ事ヲ語リ且飲マシムベシ、百姓ハ七十以上ハ子或ハ孫一人ノ役目ヲ赦シ、八十以上ハ一口俸ヲ賜フ、養老ノ宴藩

(16頁)

士ニ準ジ郡奉行之ヲ掌リ、子弟ニ其禮ヲ觀ルヲ許スベシ、町人ハ町奉行養老ノ宴ヲ掌ル、八十以上ノ者ハ同ジジク一口俸ヲ賜フ、肴核ノ類ハ、老人ノ口ニ合フベキ物ヲ主トシテ、必ズシモ多品ヲ貴バズ、孟子五十非帛不暖【③】ノ文ニ因テ、五十以上絹布赦免ノ國アリ、然レドモ孟子ノ時ハ絹布ノ外ハ麻・葛・苧ノミニテ今ノ木綿ナシ、今ノ木綿ハ暖ナルヿ絹ニ勝レリ、必ズシモ此令ヲ用ヰズ、身分アル者ハ自ラ絹ヲ服スルモ可ナリ。

注釈:
①養老ノ禮:中国の後漢の孝明帝が初めて辟雍(高等学校)で「養老禮」を行ったという。ただ「養老」(高齢者福祉)のコンセプト自体はさらに昔からあり、前漢に成立した《禮記》(内容自体は戦国時代の文章を含む)の〈王制〉篇には「凡養老。有虞氏以燕禮、夏后氏以饗禮、殷人以食禮、周人修而兼用之」云々という解説があり、戦国時代に成立した《孟子》(本人が弟子と編纂した)の〈尽心上〉にも孟子が「天下有善養老,則……」云々と制度を説明する一段がある。
② 天下達尊:世間一般的に重視されていること。《孟子・公孫丑下》には階級(爵位)と年齢と人徳の三つだとし、それぞれ政府(朝廷)内では階級が、地域社会(郷党)では年齢が、知識人(輔世長民:国君を補佐して人民を統治する人物)の間では人徳が一番重視されるが、だからといって残る二つを軽視していいことにはならないという。※《孟子・ 公孫丑下 》:天下有達尊三:爵一、齒一、德一。朝廷莫如爵、郷黨莫如齒、輔世長民莫如德。惡得有其一以慢其二哉。
③孟子は「50歳になると、絹を着ないと寒さをしのげない。70歳ともなると、肉を食べないと栄養が足りない」といい、”周文王の民で飢え凍える者はいなかった”と言われるのは、単に衣食がギリギリ行き渡っていたということでなく、高齢者に絹を着せ肉を食わせられるほど人民の生活に余裕があったという意味だという。※《孟子・盡心上》所謂「西伯善養老」者、制其田里、教之樹畜、導其妻子、使養其老。五十非帛不煖、七十非肉不飽。不煖不飽、謂之凍餒。「文王之民無凍餒之老」者、此之謂也。

意訳:我が日本国の風俗習慣は、どこの国よりも〔道徳面から見て〕優れているけれども、ただ高齢者を敬う(敬老の精神)という点では、中国(漢土)に遠く及ばない。〔政府による人民〕教育が行き届いていないためである。この弊害を改めるには、「養老の礼」を始めるのがよい。
 〔具体的には〕藩士で七十歳以上の者には年金(俸)を支給し、さらに春や秋の気候がよい時期を選んで年に一度宴会を開いてやるのがよいだろう。遠方または歩行困難な者には〔藩から送迎用の〕籃輿(かご)を出してやり、歩行困難な者は城内の本丸の門の前まで乗り入れさせるべきである。病床にある者は〔無理に登城させず〕酒と料理を自宅に届けさせる。

 〔宴会が始まれば〕初献(最初の献杯)は藩主自ら酌をする。〔参勤交代などで〕藩主が不在の場合は、〔藩主の妻子も「証人」制度で江戸居住を義務付けられており、藩内には常時不在で代行はできないので、〕藩主の親族または家老がこれに代わる。年齢(齒)というものは、《孟子・公孫丑下》で孟子が「爵一、齒一、德一」と挙げた「天下達尊」(世間で重視されるもの)の一つであり、「養老の礼」は年齢(齒)を尊ぶものなので、確かに孟子は「朝廷は爵に如くは無し」(政庁内では階級(爵)が最も重視される)と言っているが、その場では階級(爵)の上下にこだわ〔って“家臣が主君にお酌をさせるとは、社会の秩序維持という観点からいっていかがなものか”などと言ったりす〕るべきではない。だから当然、本来なら藩主に直接お目通りする資格がない「御目見」以下の下士にも、同様の礼でもって接待しなければならない。

 献杯が三巡した後は、それぞれに昔のことを語らせ、自由に呑ませるとよい。
 農民(百姓)の場合、七十歳以上の者にはその息子あるいは孫一人の賦役を免除し、八十歳以上の者には年金(俸)を支給する。養老の宴は藩士の場合に準じるが、〔ただ藩主ではなく〕郡奉行が主催し、農村の若者たちにその〔郡奉行自ら高齢の農民に酌をするという〕礼を観るのを許可するのがよい。

   町人の場合は、町奉行が養老の宴を主催し、八十歳以上の者には同じく年金(俸)を支給する。

 なお〔養老の宴で供される〕料理の類は、高齢者の口に合う物を中心として、品数の多さは必ずしも重視せずともよく、品数を揃えるためだけに、高齢者の口に合わない料理を無理に出すような真似はすべきではない。
 《孟子・盡心上》の「五十歳になると絹の服でないと暖かくない」(五十は帛に非ざれば暖ならず)の一文にもとづいて、五十歳以上の平民に絹服を許している藩がある。しかしながら孟子の時代には布と言えば絹のほかは麻・葛・苧(カラムシ)があるだけで今の木綿はなかった。今の木綿は暖かさで絹よりまさっているので、この法令は必ずしも施行しなくてもよい。ただ身分の高い者が自らすすんで〔木綿より暖かさで劣る〕絹の服を着るのはかまわない。

余論:息軒の高齢者福祉政策。儒家の経典の一つである《礼記》が規定する「凡養老」項目をベースとし、これを江戸時代の日本社会に落とし込んでいる。ここで息軒が提唱する「養老の礼」は、飫肥藩で実施された。

 息軒は、日本人は敬老の点で中国人に劣ると言う。確かにそれは現代においても言えることで、中国人や韓国人にくらべて日本人は年長者に対する「敬愛」の情が薄い(というか、あちらが厚すぎる。日本人が共感できる範囲をギリギリ越えてくる)
 「孝」概念の研究で知られる佐野大介氏によれば、日中の親子関係を比較すると、中国は子から親への「孝」をより重んじ、日本では親から子への「慈」をより重んじるという傾向の違いがあるそうだ。

 息軒の提言の要点は、単に敬老精神や親孝行を奨励するという点にあるのではなく、政府が人民の道徳意識に積極的に介入するという点にある。元来、日本の武士政権は領民の道徳教化を仏教(神仏混合)に丸投げしていた。だが明治新政府は、国民国家建設のために統一化された国民的道徳を普及させようと、神道を国教化しようとしたり、〈教育勅語〉を全国の学校に配布したりした。息軒は、言ってみれば江戸時代の放任主義から明治の国民道徳への過渡期に位置すると言えようか。(と言っても、儒者ならみな為政者による人民教化を説くのだけれど。)

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