安井息軒《救急或問》30

(26頁)

一賞典ハ議スベキヿ(こと)少ナシ、但古ヨリ孝子ノ賞ハ僅ニ有レドモ、悌【①】ト力田【②】ノ賞ナシ、又何レノ國モ淫風【③】盛ニ行ハル、先ヅ賞シテ後ニ罰スルハ天ノ道ナレバ【④】、貞女・節婦【⑤】ヲ賞スベシ、是レ皆民族を勵マスノ大ナル者ナレバ、速ニ挙ゲ行フベシ、力田トハ農業ヲ出精スル百姓ナリ。

注釈:
①悌:親以外の年長者に敬意を払うこと。
②力田:農作業に精を出す農民。
③淫風:性の乱れ。おそらく政府公認の娼館である「遊郭」以外に、非公認の私娼館である「岡場所」「色茶屋」や、婚姻関係にない男女に密会の場を提供する「出会い茶屋」などが乱立している状態を指すのだろう。
④先ヅ賞シテ後ニ罰スルハ天ノ道:自然界が一年の前半の春と夏に万物を成育し、後半の秋と冬にそれらを枯死させる事をいう。第29節を参照。
⑤貞女・節婦:夫に対して貞操を固く守る女性。若くして夫と死別した寡婦の場合、実家に帰って再婚するという選択肢もあるが、あえて婚家に残って姑と舅の介護をして残りの生涯を終える女性をいう。

意訳:〔刑罰と違って、〕賞与に関する規定(賞典)は、あまり議論すべき点がない。ただ日本では、昔から親孝行な子女(孝子・孝女)を褒賞するぐらいで、両親以外の年長者に奉仕する「悌」と熱心に農作業に取り組む「力田」とを褒賞することはなかった。
 またどこの藩(國)でも性の乱れ(淫風)が目にあまる。〔これを改めるにはどうすべきか。前節で述べたように、「春生夏長秋殺冬収」といって〕褒賞を先にして処罰を後にするのが天地自然の法則なので、まず貞女・節婦を褒賞するのがよい。
これら〔悌・力田・貞の褒賞〕は、みな我が日本民族〔の道徳心〕を大いに励ますことになるので、速やかに該当する領民を推挙して褒賞を行わなければならない。なお「力田」とは農業に精を出す百姓の事である。

余論:
 江戸時代には政府公認の「遊郭」と呼ばれる娼館のほかに、「岡場所」「色茶屋」と呼ばれる非公認の娼館も数多く営業されていた。また婚姻関係にない男女に密会の場を提供する「出会い茶屋」(ラブホテル)もあった。幕府は風紀上の理由から、何度か「岡場所」を摘発して廃業させている。

 遊女の大半は「身売り」されてきた専業だったが、諸事情から兼業で性的サービスに従事する女性も存在した。息軒が問題視しているのは、おそらく後者の存在であろう。

 息軒は、友人の塩谷宕陰が「與人語、口不及淫褻、視溺色縦欲者、不啻仇讎、吾以是知其閨房之中、濟濟有禮也」と評したように、性的方面に対して極めて厳格だった。三計塾学規にも「学問之大害は、酒色之二候。(略)。就中女色は、禍本候條、登樓致候向は、卽日退塾可申付候」とあって塾生の廓遊びを厳禁しており、実際に陸奥宗光はこの規則に抵触して退塾させられている。

 息軒の女性教育観について。
 息軒がその晩年、すでに明治に入ってから記した《睡餘漫筆》で「女子のさし出たるほど見惡き物はなし。詩經に是もなく非もなく、唯酒食を是謀ると云れしは、女子を教る名言なり。(略)女の努むべきは、貞順の道、酒色の事、織績、針の業、其の外は自用の辨ずる程に讀書を教ゆべし。其外に芸あれば、皆其身の害となる。汝が輩、女子あらば、此心得にて育つべし
」と言う。これは松平定信《修身録》の「女はすべて文盲なるをよしとす、女の才あるは大に害をなす、決して学問などはいらぬものにて、かな本よむほどならば、それにて事たるべし」ほどの極論ではないにせよ、やはり封建的な女性観を出るものではない。

 《睡餘漫筆》のこの女性教育論には下敷きがある。息軒がすでに嫁いだ長女須磨子へ送った書簡の中の一段がそれで、黒木盛幸編《安井息軒書簡集》に〈妻の道五ヶ条〉として収録されている。この書簡によると、息軒は長女須磨子夫妻宅に一泊した際、長女の夫に対する態度が目に余ると感じたらしく、うろ覚えだが、“夫婦仲睦まじいのは結構だが、実父とはいえ他人の前でああも平然と馴れ合うのはいかがなものか”とか、“‘あたし今晩はお父さん(=息軒)の面倒を見ないといけないから、あなた自分のことは自分でしてくださいね’と大声で言うとか、婿殿にも面子があるんだから”とか、"二人きりの時は夫婦のことだから好きにしたらいいが、人前ではもう少し慎め”といった小言を続けた後で、“以下に〈妻の道〉を書いておくから壁に貼って毎朝声に出して唱えろ”とある。要するに、肝心の長女が全然息軒が説くような女性に育っていないのである。

 その責任の一端は、息軒にある。息軒の四人の子女は父親に似て賢かったが、子供のころからそろって口が達者だったので、門弟たちはみんな閉口しており、なかにはそれが理由で塾を辞める者までいたほどだったが、息軒は子供らに注意するそぶりすら見せない。ついに鹽谷宕陰が見かねて「安井君も少しは、諸子に督責を加へられかし」と忠告すると、息軒は「某も其の慮り無きにあらねども、幼きより痛く裁抑しなば才氣の屈まりて、伸びざらんことを恐れ故(わざ)と督責せざるなり」と答えたという。ちなみに宕陰はこの返答に全く納得しなかった。
 かくして長女須磨子がどのように成長したかと言えば、學僕の鈴木老人が「お壽滿ごごさん(=須磨子さん)は、中々手に合ふものぢやござりません、辯舌が達者でござりまして、第一学問が、男の書生よりエラいのですもの、是は全く傍で聴いてゐた、聴き覚えでござりますが、先生は、雌鶏之晨、惟家之索だ、愼まねばならぬと言ふてゐられました」と証言するような女性に育っていた。

 長女須磨子は二度結婚し、二度とも離婚している。二度目の配偶者は勤王志士の北有馬太郎であり、彼は清河八郎をかばって投獄されているから、離縁の理由はおそらく縁坐が及ぶのを恐れただろう。一度目の配偶者田中鉄之介と離縁に至った理由は知らない。
 息軒が、長女須磨子が嫁いだ後で慌てるように〈妻の道〉を書き送ったのも、娘が離縁されないよう願う親心から出たと思えば、その内容は息軒の儒家思想にもとづくというよりも、世間知にもとづくと見るべきかもしれない。

 更に余談を重ねれば、明治の教育者西村茂樹(1828-1902)は少年時代に佐倉藩藩校「成徳書院」で、飫肥を離れたばかりの安井息軒に師事している。西村茂樹は福沢諭吉らと明六社を結成し、漢字廃止論を唱える一方で、東洋の伝統的道徳の保存・継承を強く主張し、特に女子教育にあっては儒教的な婦徳(内助の功)を推奨した。
 彼が編纂した《婦女鑑》は、日本・中国・西洋から「内助の功」を遂げた女性126人の事績を取り上げたもので、広く読まれ、明治の女子教育に大きな影響を及ぼした。

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