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一修身明德ヲ勉メテモ、良臣ナケレバ心アリテ股肱ナキガ如シ、堯ノ大聖スラ舜ヲ得ラレテ後、始メテ能ク四凶ヲ去リ、八元八愷ヲ舉ゲテ古今無類ノ聖代ト稱セリ、增シテ其以下ナル人、如何程才學アリテモ良臣ヲ得ズシテ、能ク至治ヲ成サンヤ、故ニ次ギニハ賢能ヲ求ムルヲ肝要トス、然レ共古ヨリ今ニ到ル迄、凡ソ君相タル人、材ナキヲ辭(こと)バトシ、偏ク賢才ヲ求ムルヿ(こと)ヲ知ラズ、庸庸碌碌ノ徒ニ任ジテ、空シク歳月ヲ送リ、上下困乏シ、終ニ危亡ニ至ルヿ(こと)、世主ノ常ナリ、古人此弊ヲ論ジテ、秦ハ人材ナキヲ以テ亡ビタレ共、漢ヲ輔ケテ秦ヲ亡ボセシハ、皆秦代ノ豪傑ナリト云ヘリ、總ベテ衣服飲食ヲ始メトシテ、其人ノ用ウル程ノ品ハ、必其地ニ生ジテ不足ナキ者ナリ、故ニ北地ニ獸類多ク、其ノ皮ヲヰテ寒ヲ防グニ足リ、南國ニ麻・葛・苧(からむし)多ク、其皮ヲ績ヒテ暑ヲ陵グニ足ル、人材モ亦此ノ如シ、其國ヲ治ル程ノ人ハ、必其地ニ生ズル者ナリ、古人世不絕賢(世に賢絕へず)ト云ヘルハ是レナリ、然レドモ書經ニ知人則哲、維帝難之(人を知るは則ち哲、維れ帝も之を難しとす)トアリテ、人ヲ知ルヿ(こと)ハ極テ易カラザルヿナリ、晋ノ桓溫ガ姦雄ナル
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モ、王猛ニ向テ地方ノ豪傑ヲ問フテ、猛カ天下ノ大豪傑タルヿ(こと)ヲ知ラズ、故ニ我目ヲ以テ賢才ヲ見出サントシテハ、終身其人ヲ得ルヿ(こと)能ハズ、之ヲ求ムルニ法アリ、書經ニ敷奏以言、明試以功、車服以庸(敷奏は言を以てし、明試は功を以てし、車服は庸を以てす)、又三載考績,三考黜陟幽明(三載もて考績し、三考して幽明を黜陟す)ト云フ語アリ、是レ千古人ヲ擇ビ用ウルノ聖法ナリ、敷奏以言トハ、其ノ言ヲ以テ邪正・才愚ヲ考フルナリ、治民・水害・救荒・開墾・理財・讞獄ノ類、如何處置シテ宜シカラント思フ事ヲ一二箇條宛(ずつ)題トシテ其ノ處置ヲ論ゼシムベシ、勿論俗文タルベシ、才不才ハ知リ易シ、其ノ言フ所、民ト國トノ爲メヨリ辭(こと)バヲ立ツルハ正忠ノ人ナリ、専ラ君ノ爲メヲ主トシテ民ト國トヲ次ギニスルハ小忠ニシテ治國ノ大體ニ通ゼザル人ナリ、上ノ好ム所ヲ主張スルハ姦人ナリ、明試以功トハ、功ハ工ト通ジテ、事ト云フコトナリ、其言フ所才アリテ正路ヲ失ハザレハ役人ト爲シテ其才ヲ試ムベシ、車服以庸トハ、車服ハ格祿ヲ謂フ、庸ハ功ナリ、功アリテ後其ノ功ニ應ジテ格祿ヲ賜フ也、三載考績トハ、績モ功ト同ジ、三年勤メタル時、其ノ勤メ方ノ善惡ヲ吟味スル也、勤メ方宜シカラザレバ役ヲ免シ、宜シケレバ仍舊(舊に仍ひ)ソノ役ヲ勤メシム、三考ハ三載考
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績ヲ三度スルユヘ九年ナリ、黜陟幽明トハ、九年官ニアレハ其賢不肖明白ニ分ルユヘ、賢者ハ立身サセ、不肖者ハ祿位ヲ貶スルヲ云フ、人材ヲ用ヰルノ道、是レヨリ善キハナシ、但今日此法ヲ行フニハ、三年ヲ一任ト定メ、任滿ルノ三月前、自ラ辭職ノ願書ヲ出サシメ、勤メ方善ケレバ再任ヲ申シ付、惡ケレバ辭職ヲ許スベシ、是レ士ニ疵ヲ付ケズ、廉恥ヲ養フノ一端ナリ。
余論:この一文は、官吏の登用法に対する息軒の考えを述べている。その主張を略述すれば、小論文試験による採用、成果主義にもとづく給与と昇進、三年任期制、任期満了ごとの業績考査と更新可否決定など、現代人には聞き飽きた内容だが、この文章が世襲制度が当たり前だった江戸時代に書かれたことを考慮する必要がある。武士社会にあって、こうした言説は相当過激に聞こえたのではないか。(というか、現代の公務員制度改革案としても、かなり苛烈だよね)
いったい儒教といえば、封建的身分制度を支えた理論というイメージが強いが、儒家は成立当初から一貫して世襲制度に反対してきたし、孟子などは君主の世襲にすら異を唱えている。そもそも世襲反対は、儒家に限らず諸子百家の総意であり、科挙制度はそうした中国人の思想を具体化したものと言ってよい。この科挙制度は17世紀に欧州へ伝わり、絶対王政下のフランスで官僚制度に導入され、19世紀に日本を通じて「近代的官僚制度」の手本として東洋へ逆輸入される。
世襲反対は儒家の本分であるから、当時にあって息軒一人が唱えていたわけではない。だからこそ明治を待つまでもなく、幕末の時点で各藩は藩政改革の一環として門地によらない人材抜擢に努めていたわけだし、明治政府はその思潮を継承して近代官僚制度を整備したわけである。