安井息軒《救急或問》29

(25頁)

一賞罰ハ善ヲ勸メ惡ヲ懲ラスノ具ナリ、堯舜ノ聖代ト云フトモ、賞罰ヲ舎テ治ヲ成スヿ(こと)能ハズ、聖人ノ天下國家ヲ治ムルハ、天ニ則リテ之ヲ行フ、天ハ春生シ夏長シ秋殺

(26頁)

シ冬収ム【①】、故ニ先賞シ後罰シテ【②】其功ヲ収ムベシ、刑罰世輕世重(刑罰は世に輕くし世に重くす)【③】トアリテ、世ノ風俗ニ因リテ輕重スルヿアリ、諸葛孔明蜀ヲ治ル時、劉璋【④】暗弱ノ後ヲ承ケテ、風俗柔惰ナル故、重賞峻罰ヲ用ウ、今士風ヲ振起スルニハ、孔明ノ蜀ヲ治メシニ倣フベシ、軍中ハ紀律ヲ貴ブ、易ニ師出以律不臧凶(師出すに律を以てす。不(いな)なれば臧(よ)きも凶なり)【⑤】ト云ヘリ、紀律ハ締括ノ嚴ナルヿナリ、紀律ハ賞罰ニ非ザレバ立タズ、人ヲ必死ノ地ニ驅ルニ、紀律立タザレバ、敗走ヲ諱マズ必大敗ニ至ル、是故ニ軍中ハ尤モ信賞必罰スベシ。

注釈:
①春生夏長秋殺冬収:後半を「秋収冬蔵」に作ることもある。これは「時令説」という中国の伝統的政治理論を象徴する語句で、四季の運行と施政を同期させることを主張する。
 戦国時代中期の《管子》には、四季ごとの時令を列挙した〈四時〉が見える。戦国時代末期には秦国宰相呂不韋が編纂させた《呂氏春秋》には、月単位で実施するべき政策(時令)を整理した《月令》がある。この《月令》は、漢代には儒家経典である《禮記》や道家系思想文献である《淮南子》に収録された。
 時令説はもともと稲作の年間スケジュールをベースとし、本来は”開戦するなら農繁期は避けて、刈り入れ後の秋季にせよ”などというに過ぎなかったが、《月令》では五行思想と絡み合って”春季は青い服を着ろ”などと言うようになっている。
・《管子・版法解》天地之位、有前有後、有左有右、聖人法之、以建經紀。春生於左、秋殺於右、夏長於前、冬藏於後。生長之事、文也。收藏之事、武也。是故文事在左、武事在右,聖人法之。
・《淮南子・主術訓》甘雨時降、五穀蕃植、春生夏長、秋收冬藏
・《春秋繁露・人副天數》:春生夏長、百物以同。秋殺冬收、百物以藏。
・《史記・太史公自序》夫春生夏長、秋收冬藏、此天道之大經也。弗順則無以為天下綱紀。故曰「四時之大順、不可失也」。
・《鬼谷子・持樞》持樞、謂春生夏長秋收冬藏、天之正也。
②先賞後罰:《禮記・表記》子曰「夏道尊命、事鬼敬神而遠之、近人而忠焉、先祿而後威、先賞而後罰、親而不尊。(略)。
③刑罰世輕世重:中国の伝統的な法思想で、量刑は社会秩序に応じて変更し、秩序の悪い社会では重く、秩序の良い社会では軽くすべきだとする。
・《尚書・呂刑》刑罰世輕世重、惟齊非齊、有倫有要。
・《周禮・秋官・司寇》大司寇之職、掌建邦之三典、以佐王刑邦國、詰四方。一曰刑新國用輕典、二曰刑平國用中典、三曰刑亂國用重典
④劉璋(~219):三国志に登場する諸侯で、父劉焉の後を継いで益州(四川省)を統治していたが、自ら招き入れた劉備と対立し、これに降伏して益州を譲る。劉備は益州を拠点に蜀漢を建国し、ここに諸葛孔明の「天下三分の計」構想が実現した。陳寿《三国志・蜀書・劉焉傳子璋》は 「劉璋は英雄としての才がないくせに、益州という要害地を支配して世を乱した。《周易・繫辭上》に「負且乘,致寇至。負也者,小人之事也。乘也者、君子之器也。小人而乘君子之器、盜思奪之矣」とあるように、小人の劉璋が君主の地位にあったのでは劉備という賊の侵入を許してしまったのも、自然の摂理というものだ。劉璋が益州牧の地位を奪われたのは、たまたま運が悪かったから、というわけではない」(璋才非人雄,而據土亂世,負乘致寇,自然之理,其見奪取,非不幸也)と酷評する。
⑤師出以律臧凶:「不」字、諸書は「否」字に作る。
・《周易・師》初六、師出以律、否臧凶
・《春秋左氏傳・宣公十二年》知莊子曰、「此師殆哉。《周易》有之、在〈師〉之〈臨〉曰『師出以律、否臧凶』。執事順成為「臧」、逆為「否」。眾散為弱、川壅為澤、有律以如己也。故曰『律否臧』。且「律」竭也。盈而以竭、夭且不整、所以「凶」也。不行謂之「臨」。有帥而不從、臨孰甚焉。此之謂矣。果遇必敗。彘子尸之、雖免而歸、必有大咎。」

意訳:賞罰とは善行を勧め悪行を懲らしめるための道具である。堯や舜が天下を治めていた時代(聖代)といえども、賞罰を捨てては統治に成功できなかった。(=統治に賞罰は不可欠だが、実施の仕方というものがある。〕

 昔の聖人が天下や国家を治める時には、天地自然(天)のあり方を教則として施政を行った。天地自然は、例えば植物の生育を観察すれば、春季に大地より新たな芽を生じさせ、夏季にそれを大きく成長させ、秋季に殺すつまり枯死させて、冬季は種子の状態で地下に収蔵しておく。〔つまり一年の前半の春・夏には万物を活性化させ、後半の秋・冬には逆に沈静化させる。これを人間社会に置き換えれば、君主が人民に対してある行動をとるよう促すときに使うのが褒賞であり、逆に止めさせたいときに使うのが処罰であり、褒賞を掲げれば人々の動きは活発化し、賞罰を掲げれば逆に沈静化する。〕だから施政においても、褒賞を先にし処罰を後にすることで成果を収めることができる。
 《尚書・呂刑》にも「刑罰には時代によって軽くしたり重くしたりする」(刑罰は世に輕くし世に重くす)と言うように、その時代の風俗の善し悪しによって、量刑を軽目にしたり重目にしたりすることがある。

 例えば、諸葛孔明が劉備を補佐して劉璋から益州を奪って建国した蜀漢を治める時には、暗愚で無気力だった劉璋の後を継いだこともあって、蜀の風俗が柔弱で怠惰(柔惰)であったため、〔これを一新するべく〕手厚い褒賞(重賞)と厳罰(峻罰)とを用いた。現代(※江戸時代)において武士の気風(士風)を奮い起こして盛んにするには、孔明が蜀漢を治めた手法を真似るのがよい。

 軍隊内部では規律が重視される。《周易・師》に「軍隊を出陣させる時は軍律を遵守する。さもなければ、たとえ勝利したとしても凶事が起こる」(師出づるに律を以てす。否(しから)ずんば臧(よ)きも凶なり)と言っている。
 規律とは、取り締まりの厳重なものである。規律は、賞罰を伴わなければ成立しない。人々を死地へ駆り出そうというのに、規律が成立していなければ、みな敗走することを躊躇しないので、必ず大敗に至る。だからこそ戦時中は特に信賞必罰を実施しなければならない。

余論:息軒による厳罰化論。
  《論語・為政》で孔子が「之を道(みちび)くに政を以てし、之を齊(ととの)ふるに刑を以てすれば、民免れて恥無し」(道之以政、齊之以刑、民免而無恥)と言っているのは有名である。これを拡大解釈して、”儒家は伝統的に賞罰を用いた法治主義に反対している”と勘違いしている人がいるが、そんなことはない。なぜなら儒家経典のなかで信賞必罰が説かれているからである。

 ただし儒家に於いて、君主と人民は教師と生徒の関係にあって、人民に対する賞罰はいわば生徒に対する教育的指導に相当するので、刑罰には必ず「教育的目標」が設定されていなければならない。別の言い方をすれば、倫理道徳一般や公共の利益に反する法律の制定を許さない。(だから儒者は政府による専売制に反対する。)
    反面、倫理道徳という「個人の精神の自由」に関わる領域に、權力が踏み込んでくることを許す。君主が不道徳な風潮を放置するのは、教師が生徒の不真面目な態度を黙認するに等しいからだ。これは古代中国に限った話ではなくて、現代中国にも言えることだ。

 息軒が「重賞峻罰」(褒賞金の高額化と量刑の厳罰化)を説くのは、江戸260年間の天下泰平のなかで文人官僚と化した武士の目を覚まさせ、「柔惰」な気風を一掃して再び「士風」(戦士の考え方)を呼び起こすという教育的目標のためである。
 息軒がそれを急務と考えるのは、当時の日本が欧米列強が覇権を競う国際的戦国の世に引きずり込まれたにもかかわらず、支配階級たる武士たちが平和ボケしたままだと危惧しているからであろう。

 日本が、明治に入って近代化とともに急速に軍事国家としての面目を整えていくのは、ある意味、この「士風」を奮い起こした結果だとも言えようか。

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