安井息軒《救急或問》10

一今日ノ政事ト云ヘルハ年貢運上ヲ取納メ、公事・訴訟ヲ聽斷スルコト、盗賊ヲ緝捕ス

(一〇頁)

ルノ三ニ止リ、治教ト云フヿ絕テナシ、是故ニ何レノ國ニモ教官ト云フ者ナシ、大ナル闕典ト云フベシ、然レ𪜈(ども)教官ヲ置クトテ、書生等廻村シテ書ヲ講ズル如キハ、唯益ナキノミニ非ズ、大ニ村里ノ煩擾ヲ增スベシ、周禮立官ノ意ヲ以テ考フレバ、教官郡奉行ノ兼職タルベシ、此役ハ成丈ケ書ヲ讀ミテ大義ニ通ジタル者ヲ用ヰ、教職ヲ兼ネシムベシ、又百姓ノ中ニ、生得忠實ノ老人一村ノ心服スル者必アル者ナリ、其人を擇ミテ、地ノ廣狭人ノ有無ニ從ヒ、一箇村ニ二人或ハ二箇村ニ三人、立テヽ宿老トナシ、兼テ郡奉行ヨリ教導ノ大意、孝悌和順ノ筋ヲ喩シ置キ、其ノ村ノ子弟ヲ教ヘ導カシムベシ、但シ事ニ觸レ類ニ隨テ教ウルヲ善シトス、煩雜ナルヲ欲セズ、煩雜ナレバ壓倦ノ心ヲ生ズル者ナリ。若シ村中ニ爭ヒ訟ヘ等ノ事アレバ之ヲ和解シ、身持惡シキ者アレバ之レヲ意見シ、孝悌力田ノ者アレバ竊カニ郡奉行ニ申達シテ、他日勸懲ノ本トナスベシ、其人田祿アラバ、別ニ俸米ヲ賜フニ及バズ、格ハ名主ノ次席タルベシ、郡奉行ハ子弟ノ勤ムベキ事ヲ解シ易ク書取リ、廻村ノ時讀ミ聞カセ、孝悌力田ノ者アラバ、呼ビ出シ大勢ノ中ニテ褒メ遣ハシ、ソノ後ヲ勉メシメ、尤モ勝レタル者ハ、上ニ達シテ賞典ヲ行フベシ、此レ其大略ナリ。

意訳:今日(※江戸時代)において政治と言えば、農業に課される税である「年貢」と商業・工業・運送業・漁業などに課される税である「運上」を徴収し、訴訟を審理して判決し、盗賊などの犯罪者を捕縛するという三つに限られており、人民教育(治教)という視点は全くない。そのためどこの藩にも「教官」(※1)という役職はない。これは制度上の大きな不備というべきである。

補注:
※1 教官:《周禮》は「地官・司徒」について「乃立地官司徒,使帥其屬而掌邦教,以佐王安擾邦國。教官之属」云々といい、「地官」所属の官職には「郷師之職:各掌其所治鄉之教而聽其治」「州長:各掌其州之教治政令之法」などがある。
しかしながら「教官」を配置するといっても、見習い学者(書生)らに村々を巡回させて経書(儒家の経典である四書五経)を講義させるような真似は、ただ無益のみならず、村内のごたごたとした面倒ごとを大いに増やすだけになるだろう。
 儒教の経典の一つである《周禮》が〔「教官」系の〕官職を立てている意図を汲んで〔、どうするのがいいかを〕考えてみると、この「教官」は今の郡奉行(※1)が兼任するのがよい。この〔郡奉行という〕役職には、なるたけ経書を読んで大義に通じている者、つまり儒学を修めていて、忠孝の何たるかがよく分かっている人物を登用し、教職を兼ねさせるべきである。

補注:
※1 郡奉行:地方行政官。江戸時代、各藩は領内をいくつかの「郡」にわけ、各郡に郡奉行を一人ずつ派遣して間接統治した。もともと藩主は藩士に領地を与え、藩士は自分で領地経営して収入を得ていたが、やがて藩主が藩内の領地を一括管理して、藩士には俸米だけを給付する方式に改めた。郡奉行は、そのために藩主が派遣する地方行政官である。
 また庶民(百姓)のなかにも、生まれつき他人に対して真心があって誠実(忠実)で、村全体が心服しているという老人が必ずいるものだ。その老人を選んで、村の規模や適当な人材の有無に応じて、一つの村に二人あるいは二つの村に三人ほど取り立てて「宿老」(※1)とし、事前に郡奉行より教育係の大まかな役割と〔教育内容である〕「孝悌和順」(※2)の大切な点について説明しておいて、各自の村の若者たちを教え導かせるのがよい。
 ただし〔教える際には〕実際の場面や似た場面に応じて教える(=実地で教えるか、具体的事例を挙げて教える)のがよいとし、煩雜な説明(=例えば専門的で学術的で哲学的な抽象論)は求めない。話が煩雜になると、〔若者の方で〕うんざりする気持ちが生ずるものだ。

補注:
※1 宿老:町内会長(村長ではない。村長は、村役場という行政機構に対する権限を有するが、町内会長に公的権限はない)。江戸時代の「年寄役」
※2 孝悌和順:「孝」は親を敬い、「悌」は兄や姉を敬うこと。「孝悌」は、年長者に敬意を払うこと。「和順」は穏やかでおとなしい気質。
 〔宿老たちは〕もし村のなかで争い事や訴訟ごとなどがあれば和解させ、品行が悪い者がいれば注意し、年長者を敬い(孝悌)農作業を頑張る(力田)者がいればこっそり郡奉行に報告し、〔郡奉行はこれを〕他日の表彰や訓告の材料とする。彼ら(=宿老)はもともと田畑を有しているので、別に給料を与える必要はないが(※1)、格付けは村長(名主)の次とする必要がある。

補注:
※1 〈地官・載師〉の鄭玄注に「庶人在官者,其家所受田」とある。息軒は宿老を「庶人の官に在る」者と考えたのであろう。この「庶人在官」に給与を支払うべきか否かは、《周礼》解釈上の一大問題であったが、息軒は支払い不要と考えている。
 郡奉行は若者が努めるべき事を分かりやすく書き起こし、村を巡回する時に自ら読み聞かせ、その際にもし〔事前に宿老から報告を受けていた〕“孝悌力田”の者がいたなら、呼び出して大勢の前で褒めてやり、その後も続けるようにさせ、さらに最も優れている者は藩主に報告して褒美を与えてもらう。
 これがその〔「教官」の職掌の〕大略である。

余論:息軒は人民教育の必要性を唱え、さらに教育方法について説明する。

 人民教育といえば、やはり戦前の《教育勅語》が思い起こされる。現代日本には政教分離の原則があり、小学校の「道徳」の授業に対してさえ異論がたえず、息軒の”国家が国民の道徳教育を行う”という考え方には時代錯誤の感がある。
 だから、やはりここでも「民」を”国民”ではなくして”未成年”と読み替えて再解釈する必要がある。そうすると、本段は学級経営論や少年スポーツの指導論として示唆に富む。小学校や中学校で学級担任をしている方の意見が聞きたいところだ。

 そもそも江戸時代において、人民の道徳教育は行われていなかったわけでなく、専ら仏教がこれを担っていた。息軒の主張は、それを政府の手に取り戻すべきだというに過ぎない。《教育勅語》の発案者である元田永孚が儒者だったのは偶然ではない。

 

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