安井息軒《救急或問》02

一修トハ修理ノ事ニテ、家屋ノ壊レタル處不便利ナル處ハ修理ヲ加ヘ完キ家ト成ス、人ノ身モ之レニ同シ、臭ク穢キ處アレバ、臣民信服セズ、其身不正雖令不從(其の身正しからざれば令すと雖も從はず)ト云ヘ

(頁2)
ル是レナリ、故ニ務メテ其身臭穢ノ行ヲ除キ去テ修理ヲ加ヘ全キ人トナルベシ、總テ人ハ善悪ヲ論ゼズ、己ニ類スル者ヲ悅ブ者ナリ、故ニ取人以身(人を取るに身を以てす)トアリテ、己善ナレバ善人ヲ取リ、己惡ナレバ惡人ヲ取ル、古來亡國ノ君モ、惡人ヲ用ヰテ己カ國ヲ亡ボサント思フ者ハ一人モ有ルベカラズ、唯身修マラズ德明カナラザルユヘ、惡人ヲ賢人ト思ヒ、疵政ヲ善政ト思ヒ誤マリ、終ニ其國ヲ亡ボスニ至ルナリ、中庸ノ治天下國家有九經ト云フ條ニ、修身ヲ以テ首ニ出セルハ此ノ譯ナリ、德トハ好キ心得アルヲ云フ、己ヲ薄フシテ人ヲ厚フスルノ意ヲ含ム、明德トハ、左傳ニ、務崇之也ト見ヘテ、好キ心得ヲ積ミ重ネテ、天下ニ誰レ知ラヌ者モ無キホドニスルヿナリ、論語ニ、爲政以德譬如北辰居其所而眾星共之ト云ヘリ、政ハ法度號令ノ類ニテ、民ヲ治ムル手筋ナリ、時ニ應ジタル善政ニテモ、権謀術数ヨリ出ヅレバ民心服セズ、専ラ民ノ為ニスル好キ心得ヨリ出ヅレバ、民心誠ニ服シテ、衆クノ星ノ北極ニ向テ之ニ背スル星一モナキガ如シト云ヘルナリ、民心此ノ如クナレバ、財ノ多寡有無ニ拘ハラズ、水火モ蹈マシムベシ、故ニ人君ハ修身明德、勉メテ治

(頁3)
國ノ本ヲ立ツルヲ第一ノ務メトスベシ。

意訳:〔修身の〕「修」とは修理のことで、家屋の壊れて不便な箇所は修理して完全な状態の家にするが、人間もこれと同じで、〔君主の人間性に〕汚れて臭い所があれば臣下も人民も信服しない。《論語・子路》で孔子が「身の振る舞いが正しくなければ、たとえ命令しても誰も従わない。(正しければ、命令しなくても皆従う)」と言っているのは、それである。だから為政者たる者の務めとして、その身から臭穢な行為を除き去って、〔家屋を修繕するように、自らの人間性に〕修理を加えて全うな人間にならなければならない。
総じて人間というものは善悪に関係なく、自分に似たタイプの人間に喜んで従うものである。だから《中庸》にも「人材を獲得するためには君主自身〔の人間性〕を用いる」とあって、自分が善であれば善人を〔部下として〕獲得できるし、自分が悪であれば悪人〔の部下〕を掴んでしまうものだ。古来より亡国の君主は数あれど、わざわざ悪人を登用して自分の国を滅ぼそうと思っていた者など一人としていたはずがない。ただ君主本人がちゃんとできていないから、悪人を賢者と思い込んで〔重職に任命した挙げ句〕、欠陥のある政令を善政と思い違いし、とうとう自国を滅ぼすに至ったのである。《中庸》の「天下国家を治めるには九つの常道がある」という条項で、「修身」を最初に出しているのはこういう訳である。
「徳」とは、良い心構えを持っていることで、自分の利益を薄くして他人の利益を厚くする(自己犠牲と利他主義)という意味を含む。「明徳」とは、《春秋左氏伝・成公二年》に「打ち立てるよう務める」とあって、良い心構え(自己犠牲と利他主義)を積み重ねていって、その事を天下に誰一人知らぬ者はいないという状態にまですることである。
《論語・為政》で孔子は「政治を行うのに徳を用いるとは、例えるなら北極星が定位置にあって動かず、他の星々がその周囲をめぐっているような状態だ」と言っている。ここでいう政治とは法令や命令のたぐいで、人民を統治するための基本的な手段だが、たとえ時宜に応じた良い政令であっても、為政者の私利私欲から出ていれば人民は心服しないし、ひたすら人民のためを思って行動する良い心構え(自己犠牲と利他)から出ていれば、人民は心から従って、〔孔子が言う〕星々が北極星を中心に運行して背を向ける星が一つもないような状態と言える。人民の心情がこのようになれば、財産の多寡や有無など気にせず、〔君主は人民を〕火の中だろうが水の中だろうが踏み込ませることができる。だから君主たる者、「修身明徳」(自己犠牲と利他主義の実践者として認知度を高めること)して国を治める基本を確立することこそを、第一の責務とすべきである。

余論:現代人が封建時代に書かれた君主論をそのまま君主論として読み込んだところで、得るものは少ない。少し読み替えを行う必要がある。国民主権の原則に照らせば、本節でいうところ「君」(人君)とは有権者であり、「臣」が政治家である。そうすると息軒がここで言うのは「国民は自らの程度に応じた政治しか持ち得ない」(松下幸之助)という指摘であり、もし政治家に”自己犠牲と利他主義”の精神を求めるのであれば、まず何より有権者自身がそうあらねばならないという要求である。「総じて人は善悪を論ぜず、己に類する者を悅ぶ者」なので、有権者が利己主義にとらわれている間は、いつまでも利益誘導型公約を掲げる利己的な政治家ばかりを当選させ続けることになる。

 その一方で、本節では「民」(人民)と呼ばれる人々が想定されている。この「民」を現代日本における国民一般と解釈するのは、およそ適切ではない。「民」とは高等教育を修めておらず、識見に乏しいとされ、それゆえ参政権を賦与されない代わりに、政治に責任を負わず、納税などの義務もない人々である。現代日本で言えば、18歳未満の未成年がそれに相当すると思う。さすがに中高生に向かって「今の日本の政治が悪いのは君らのせいだ」という人はいないだろう。それと同じで、「悪政」の原因を「民」自身に帰する儒者はいない。
 そうすると、「民」云々の箇所は教育論として読み替えるべきであろう。「権謀術数より出づれば民心服せず、専ら民の為にする好き心得より出づれば、民心誠に服」すというのは、教える側と教わる側の間に信頼関係の構築が必要で、その責任は教える側にのみあることを指摘するものである。

 総じて言えば、息軒の読み替えによって気付かされるのは、現代日本では政治家や公務員に対して高い倫理性を要求するばかりで、彼らを公僕として使役する主権者であるはずの国民が、自ら望んでただ善政の恩恵を被るばかりの「民」(人民)に成り下がろうとしている現状である。

「古来亡国の君も、悪人を用いて己が国を亡ぼさんと思う者は一人も有るべからず。唯だ身修まらず德明かならざるゆえ、悪人を賢人と思い、疵政を善政と思い誤まり、終に其の国を亡ぼすに至るなり」

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