安井息軒《救急或問》06

(6頁)
一官制トハ役義【★】ノ立方ナリ、其法和漢共ニ周官ヨリ出タリ、周官六卿ニテ六職ヲ分掌

(7頁)

スルニ倣ヒテ、唐ノ世ニハ六部尚書ヲ立ツ、其後追々變革アレ共、大畧此法に本ヅカザルハナシ、我王室モ唐ノ六部尚書ニ倣ヒ、其宜シキニ從テ取舎シ、八省ノ卿ヲ立テラル、其上ニ太政官ヲ置クハ唐虞百揆ノ任ナリ、武家ノ世ト成リテハ、制度略ニテ、官制ハ備ハラズ、鎌倉ノ時評定衆ヲ置キテ政事ヲ議シ、引付衆ヲ置キテ訴訟ヲ断ズ、其餘武家ノ事ハ、侍所ノ別當之レヲ治ム、今日太平ノ久シキニ至リテ、宮家モ追々ニ增益シタレ共、古法ニ叶ヒシト云ヒ難シ、然レ共一旦ニ變更シテ、古ヘニ復セントスルハ、亦時務ヲ知ルト云フベカラズ、但其中ニ改メザルベカラザル事新タニ立テザルベカラザル官アリ、即チ左ノ如シ。

「官制」とは役職の立て方である。そのための法律は、日本と中国はともに経書の《周官》(別名《周礼》)を原点とする。《周官》が「六卿」(天官冢宰・地官司徒・春官宗伯・夏官司馬・秋官司寇・冬官司空)で六つの職務を分掌しているのに倣って、中国では唐朝の時代に「六部尚書」を立てた。その後おいおい変革はあったけれども、みな大略この法(唐朝の三省六部)に基づいている。

補注:
役義:役目、任務、務め、職分、職掌。
冢宰:天官。天子を輔弼する宰相職と身辺の世話役。
司徒:地官。戸籍と教育を司る。人民を監督する役目。
宗伯:春官。祭祀と儀礼を司る。
司馬:夏官。軍事を司る。
司寇:秋官。警察と刑罰を司る。
司空:冬官。土木と水利を司る。
我が日本の皇室も〔律令時代に〕唐朝の六部尚書に倣い、日本の事情に合うか否かに従って取捨選擇したうえで、「八省卿」(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)をお立てになられた。〔日本が〕八省卿の上に「太政官」を置くのは〔独創ではなく、《尚書・舜典》に見える〕堯舜が置いた「百揆」の役職である。
武家の時代となってからは〔戦時下ということで〕、制度は簡略化され、官制にも不備が生じ、鎌倉時代には〔ついに三職だけとなり、〕評定衆を置いて政治問題を評議し、引付衆を置いて訴訟問題を処理し、その他の武家に関する事案は侍所の別當が管轄し〔てすませ、戸籍や教育、土木水利、祭祀などを担当する部門は政府機構から姿を消し〕た。
今日(※江戸時代)では〔武家の時代といえども〕長らく太平の世が続いたこともあり、「宮家」などもおいおい増設されたりはしてきたけれども、〔官僚制度全体としてはまだ不備が多く、古代の聖人が《周官》として定めた〕古制に合致しているとは言い難い。しかしながら一度に全てを変更して、古制を復活させようとするのは、これまた時務を理解しているとは言えない。ただ、そのなかには今すぐ改正しなければならない事や新たに立てなければならない官職がある。左記の通り。

余論:息軒による官僚制度改革案の序論。注目すべきは、息軒が自らの改革を「新法」ではなく、「復古」と位置づけている点だ。
 息軒の藩政改革案は、基本的に全て経書の一つである《周礼》に立脚している。幕末期には、息軒以外にも《周礼》に基づいて藩政改革を提案した儒者は何人もいて、例えば会沢正志斎もその一人である。というか、江戸時代の《周礼》研究は官制改革を目的として進められたと言っていい。

 さて、幕末維新期と一括にされるように、明治維新は所謂る「人民革命」的な階級間闘争の戦果ではなく、武士階級における政権交代(徳川→薩長)に過ぎなかったため、政治機構の担い手に本質的な変化は生じず、ゆえに幕末期に諸藩が取り組んでいた藩政改革は、そのまま明治新政府に引き継がれていく。明治新政府の初期キャッチコピーが「王政復古の大号令」であったのは、幕末の藩政改革論が《周礼》を典拠としていたことを反映するものだろう。(「明治維新」というキャッチココピーが生まれたのは「明治14年の政変」以降らしい)

 例えば明治新政府が決定した新制度だが、廃藩置県(中央集権化・明治4)・廃仏毀釈(政教分離と国家神道・明治1)・学制(普通教育と国民国家・明治5)・徴兵制(近代式軍隊・明治5)・太政官(近代的官僚制度)など、これらはいったい何によって決定されたのだろうか。
 というのも、岩倉使節団が欧米視察から帰国するのは明治6年9月のことで、使節団が帰国した時には上記の新制度はすでにスタートしているからだ。
 果たして”明治新政府は西洋の近代国家をモデルとして出発した”という一般的な解釈に、問題は無いのだろうか。

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