安井息軒《時務一隅》(一)02b

02-01 君は天下の心に御座候、心暗弱に候へば、手足健やかなりと雖も、其の用を爲すこと能はず、何事も人並みには出來兼ね申し候ふ。是の故に賢姦の進退、國用の奢儉、國家の貧富、天下の治亂、孰れも君上の賢不肖より起こり候事、和漢の先蹤、歷々相見え申し候ふ。當將軍家、御英明わたし爲され候ふ由(よし)、天下の大幸此事に御座候。然れども未だ御若年の御儀、殊に風俗弊壞、外夷窺隙、容易ならざる御時節に候へば、君德御輔導の儀、今日の急務と存じ奉り候。

意訳:君主とは社会の頭脳(天下の心)でございます。もし頭脳(心)が愚かで無気力(暗弱)でしたら、いくら手足が健やかでも、それを使うことができず、何事も人並にはできません。そのため賢臣・姦臣の登用と罷免、国費の無駄遣いと倹約、国家の貧富、社会の秩序と混乱などが、いずれも上に立つ君主の賢さと愚かさ(不肖)によって起こります事は、日本や中国の先例にはっきりと見えております。
 我が日本国の将軍家がこれまでずっとご英明であらせられました事、日本社会にとっての大幸運(天下の大幸)とはまさにこの事でございます。

余論:上の本文は、原文を読みやすいように整理し直している。
 本段は本節の導入部分に相当し、君主は暗愚であってはならないという前提条件を確認する。ここから将軍の教育問題へと話をつなげる。


02-02 然かれども未だ御若年の御儀、殊に風俗弊壞、外夷窺隙、容易ならざる御時節に候へば、君德御輔導の儀、今日の急務と存じ奉り候ふ。德行修明の儀、貴賤となく、學問を主と致し候ふ事ゆえ、儒臣御親近し候ふ儀、勿論の事に御座候。然かれども儒臣も林氏の外は禄秩卑く、講義の外は、何事も申し上げ兼ね申すべし。尤も奥儒は、頗る御親しみも在り爲され候ふ事と相ひ見え候えども、是れも亦た日々進講と申す程には之れ有るまじく、縱令(たと)ひ日講仰せ出され候へども、講義相ひ濟めば、直に退出致し候ひては、補益少なく候ふあひだ、進講後も御留め遊ばされ、時務形勢等、御話し申し上げ候ふ樣成されたく候ふ。右の通り仰せ出され得ば、先づ其の本は立ち申し候へども、儒官は朝夕侍從の臣に御座無く候ふあひだ、兎角御補益多からざり候ふ。

意訳:しかしながら現在の14代家茂将軍がまだお若くいらっしゃる件について、特に今は国内の風紀が紊乱し、外国人どもが〔我が日本を植民地にせんと〕隙をうかがっており、〔内政・外交ともに〕容易ならざる時勢でございますれば、お若い家茂将軍を善導してその君主としての「徳」(利他)を育むことこそが、今日の急務と存じ申し上げます。
 「德」(利他)にかなった行動を身につける事は、身分の貴賎に関係なく、主に〔儒学という〕学問を通してのことゆえ、家茂将軍が儒臣を身近にお置きになって親しまれます事は、もちろん〔必要不可欠〕の事でございます。
 しかしながら儒臣とは申しましても、〔代々将軍家の侍講を務める〕林家のほかは俸禄が低く、儒学を講義するほかは、〔将軍に対して〕何も奏上できないでしょう。もっとも〔将軍の侍講である〕奥儒者は〔代々林家が世襲してきたこともあってか〕、家茂将軍もすこぶる親しみもお有りのことと見えますけれども、こちらもまた日々家茂将軍に対して儒学の講義を行っている(進講)と申すわりには〔、儒学以外の問題について〕奏上する機会はないでしょう。
 〔一般の儒臣ともなれば〕たとえ〔将軍が〕定期的な講義(日講)をお言いつけになられましても、講義が終われば、すぐに〔御前より〕退出いたしましては、講義内容をあまりフォロー(補益)することもできませんので、講義(進講)が終わった後もしばらくお引き止めになって、儒官よりその時の急務や国内外の情勢などについて、お話し申し上げられますようにしていただきたいです。
 右の通りお命じいただくことができましたら、まずその(=家茂将軍を善導してその「徳」を育む〕ための土台はできたと申し上げることができますけれども、儒官は将軍のお側に一日中お仕えするタイプの臣下ではございませんので、兎に角フォローできることが多くありません。

余論:14代家茂将軍に対する教育方法について、提言する。
 家茂将軍(1846-1866)は安政5年(1858)に13歳で将軍職に就任し、文久年間(1860-1864)でもまだ15~19歳のティーンエージャーであった。それゆえ息軒は、家茂の人格形成に焦点を当てて、まず儒臣を身近におくこと、そして儒臣から儒学のみならず時事問題や国内外の情勢についてレクチャーを受けさせることを提言する。
 ただ、たとえ講義後に雑談の時間を設けたとしても、儒官は家茂将軍と一緒に過ごす時間がそもそも短いため、家茂将軍が薫陶を受けるには十分ではない。この不足をどう補うかを次に論じる。


02-03 古語に「習慣如自然」(習慣は自然の如し)と申し、「僕臣正厥后克正、僕臣諛厥后自聖」(僕臣正しければ厥(そ)の后(きみ)も克く正しく、僕臣諛(へつら)へば厥の后自(みずか)ら聖とす)とも申し候ふ。朝夕左右に陪侍致し候ふ衆は、御親しみ深く、自然氣習に御染み遊ばされ候ふ儀、人情の常に御座候あひだ、御用・御側以下、御小納戸・御小姓衆等、總て近侍の方は、忠實にして、志操ある人を御撰用相ひ成り、晝間は成る丈け御表に在り爲され候ふ樣成されたし。御輔導の筋は、東照公天下の爲にご苦勞遊ばされ候ふ儀、御歷代樣御高德の筋は申し及ばず、和漢の盟主、天下之事に御心を盡され候ふ事より、當時天下の形勢、民間の利害等、事に觸れ機に投じて御話し申し上げ候ふ樣成され候はば人君之道聢(シカ)と御合點遊ばされ、御志相ひ立ち、御心得益〻正しく、御高慢の氣も出申さず、御才德の進み候ふ事、朝日の昇る勢に成り爲さるべく候ふ。

意訳:昔の言葉に、「習慣は後天的に身につけるものだが、若い頃に身に付けた習慣は持って生まれた性質のようになり、それをするのが自然であるかのような状態になる」(《孔子家語・弟子解》)と申しますし、「臣下が正しければその主君も正しくなることができる。臣下が主君におもねれば、その主君は自分を聖人だと自惚れるようになる」(《尚書・冏命》)とも申します。
 将軍の左右に一日中お仕え(陪侍)いたします方々は、将軍も深く親しみになられ、〔彼らの影響が〕自然と将軍の気質と習性に染み込みあそばされますことは、人間心理(人情)として当たり前のことでございますので、御用人・側用人以下、小納戸・小姓の方々など、将軍のお近くで日常的にお仕えする方は、忠実で、自分の主義・思想を堅く守って軽々しく変えない人物(志操ある人)をお選びになって登用になり、昼間はなるたけお外にいらっしゃられるようになさっていただきたい。
 〔儒官が将軍を〕御善導するためのコース(筋)は、東照権現徳川家康公が日本社会(天下)のためにご苦労あそばされましたことや、歴代将軍の御高徳にまつわる逸話の粗筋は申すまでもなく、日本や中国の盟主が天下の事に御心を尽くされました事から、現今の社会(天下)情勢、民間の利害問題など、何かにつけて機会を見てはお話し申し上げますようにしていただけましたならば、家茂将軍も「君主の道」(人君之道)についてしっかりご理解になりあそばされ、御志もしっかりと立ち、御心もますます正しくなり、高慢のお気持ちも出ず、才知と徳行が進歩いたしますこと、朝日の昇る勢いにもおなりになります。

余論:息軒は、《孔子家語》の孔子の発言を引用して”若い頃に身につけた習慣が性質と化して取り除けなくなる”といい、そして《尚書・冏命》を引用して”臣下の人格が、君主の人格形成に対して大きな影響を及ぼす”という。
 以上を踏まえて、家茂の近くに一日中伺候している御用人や小姓に「志操ある人」を選抜することを提言する。息軒の提言を待つまでもなく、将軍の小姓には人品が最も重視されたという。
 それから儒官の役割にもどって、家茂に与えるべき教育内容について言及する。儒学に限らず、歴代徳川将軍や日中両国の盟主など、歴史上の優れた君主の事績。それから現在の社会情勢や民間の問題。これらについて、何かにつけて解説を施し関心を育めば、家茂自身が「君主の道」について自分なりに何かを掴むという。

 ちょっと面白いのは「晝間は成る丈け御表に在り爲され候ふ樣成されたし」という唐突な一文であろうか。家茂は幼少の頃は風流を好んだが、13歳で将軍となってからは文武両道を修めるよう努めていたという。それでも息軒から見れば、家茂は運動不足に見えたのだろうか。家茂は慶應2年(1866)に脚気で没している。享年20歳。

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