安井息軒《救急或問》20

(18頁)

一生財有大道【★】ト云フコト大學ニ見ヘテ、至極ノ道理ナレトモ、今ノ世ニハ之レヲ生ズル者ハ百姓ノミニテ、之レヲ食フ者ハ士ト商ト古ニ數十倍シ、其ノ上ニ浮屠・修驗・神職・遊手等夥シキ人數ナレ共、其勢ヒ速ニ變シ難シ、但用之舒ナル事ハ、人君ノ心ニアレハ、今日生財ノ道ハ用ヲ節スルヲ肝要トス、然レドモ委敷邦内ヲ講究セ

(19頁)

バ、猶ホ伏利ナキニアラズ、農ノ餘力アル者無高ノ小民等ヘ勸メテ開墾セシムベシ、又タ山僻曠寞ノ地アラバ、小祿ノ士二三男ヲ募リ一纏メニ聚メ、始ハ夫食ヲ給シテ開墾セシメ、五箇年ノ間ハ作リ取リ【①】トシ、六年目ヨリ本田畠十分二ノ租ヲ出サシメ、士格【②】ヲ許シ、萬一國家爭擾ノヿアラバ、宗家ニ屬シテ出陣セシムベシ、久シキ後ニハ自然古ヘノ黨【③】ノ兵ノ如キ者ト成リテ、治亂兩便ナルベシ、其地五穀【④】ニ宜シカラズンハ、蕎麦・蕃薯【⑤】・稗・芋ヲ始メ、綿・茶・漆・楮【⑥】・櫨【⑦】・甘蔗【⑧】ノ類其地ニ宜シキ品ヲ植ヘシムベシ、蕎麦・蕃薯・稗・芋ノ類ハ新開ノ柔脆ナル地ニ宜シ、如何程瘠薄ノ土ニテモ善ク蕃殖ス、木綿ハ赤土ノ淺クシテ岩サヾレ雜リタル地・沙地等ニ宜シ、尤モ東南風ヲ受ル地ヲ善トス、黑壤ヲ嫌フ、茶・漆・楮ハ北陰ニ宜シ、海風ヲ諱ム、茶ハ川霧ノ立ツ地ヲ尤モ妙トス、櫨ハ之ニ反ス、甘蔗ハ沙地ニ宜シ、猶老農ニ功者【⑨】アルベシ、詳ニ問ヒ明カムベシ

注釈:
★曾子〈大学〉:生財有大道。生之者衆、食之者寡、爲之者疾、用之者舒、則財恒足矣。
①作り取り:田畑の収穫物を年貢として納めず、全て自分の所得とすること。江戸時代に新田開発の奨励策として一定期間設けられた免税措置。
②士格:「士分」、武士の身分・資格で、苗字帯刀が許された。
③黨:「党」、中世日本における武士集団の形態。まず血縁的な「党」から始まり、地縁的な「党」へと発展した。
④五穀:五種の重要な穀物を意味するが、近世日本では穀物に限らず、重要な栽培作物を五穀と総称した。具体的に何を指すかは諸説があり、例えば《周礼・天官・疾医》の鄭玄注は「麻・黍・稷・麦・豆 」といい、《孟子・滕文公上》の趙岐注釈は「稲・黍・稷・麦・菽」 といい、《楚辞・大招》の王逸注は「稲・稷・麦・豆・麻」という。
⑤蕃薯:さつまいも。
⑥楮:こうぞ。和紙の材料。
⑦櫨:はぜのき。和蝋燭などの原材料となる木燭が採れる。江戸時代に琉球から輸入され、商品作物として農村に普及した。
⑧甘蔗:さとうきび。砂糖の材料。
⑨功者:「巧者」と同じ。熟練者。

意訳:「国の”財”(財源、資産)を豊かにするにも、正しいやり方というものがある。〔”財”を生産する者(農民と職人)の人数を増やして、”財”を消費するだけの者(官僚と商人、自由民)を減らし、生産の速度を上げて、消費の速度をゆるめれば、財源不足にはならない〕」という言葉は、孔子の直弟子(孔門の十哲)の一人である曽子が著述した〈大学〉に見えて、この上なく道理にかなってはいても、今の世の中(※江戸時代)で「財を生ずる」者といえば百姓だけで、その財を食いつぶす者は武士と商人でその人数は昔に数十倍し、そのうえ僧侶(浮屠)・修験者・神職・遊び人などおびただしい人数になるが、その情勢はすぐに変えるのは難しい(=〈大学〉の言葉に従って、すぐさま非生産者を取り締まって農民に転職させることは現実的に困難である)。
 ただ「消費の速度をゆるめる」ことは、君主の心がけ一つなので、今日では「生財の道」といえば費用の節約を肝要とする。

 そうではあるけれども、詳しく領内を調査して研究すれば、まだまだ隠れた富(=財源を増やす手立て)がないわけではない。例えば農民で自分の田畑を耕作してなお余力がある者や農地を持たない小作人などに奨励して開墾させればよい。

 また人里離れた山奥に未開発の空白地帯があれば、俸給の少ない武士の二男や三男を募って一まとめにして集団移住させ、はじめは藩の方から食糧を支給して開墾させ、五年の間は現地の収穫物は免税とし、六年目より主要な田畑に20%の租税をかけ、正規の武士として承認し、万一領国で争乱が起これば、本家に帰属させて出陣させるのがよい。
 長い時が過ぎた後には自然と昔の「党」(地縁的武士集団)のようなものになって、世の中が平和に治まっている場合は農耕して年貢を納め、乱れている場合は武装して治安維持にあたると、治乱いずれの場合でも役立つようになるはずだ。

 もしその土地が五穀(穀物類)の栽培に適していなければ、蕎麦・蕃薯(さつまいも)・稗・芋をはじめ、綿・茶・漆・楮(こうぞ)・櫨(はぜのき)・甘蔗(さとうきび)の類で、その土地に適した作物を栽培させるのがよい。
 蕎麦・蕃薯・稗・芋の類は新たに開墾されたばかりの柔らかくもろい土地に適しており、どれほど痩せた土地でもよく繁殖する。
 木綿は、赤土で作土層が浅くて小石が混じった土地や砂地に適しており、東南から吹く湿って暖かい風を受ける土地が最も良いとされ、肥沃な黒土(黑壤)を嫌う。
 茶・漆・楮は日当たりの少ない北向きの斜面に適し、潮風は厳禁である。茶は川の水面に朝霧が発生する土地がもっとも適しているとされ、櫨(はぜのき)はその反対である。
 甘蔗(さとうきび)は砂地に適している。

   やはり老農夫には農業に熟練した者がいるはずだから、詳しく尋ねればはっきりするだろう。

余論:息軒の重農主義的財政論。注目すべきは、武家の次男・三男を僻地へ集団移住させて開墾と防衛を担わせる、所謂る「屯田兵制」を提言していることだ。

 江戸時代の官職は基本的に世襲制であるから、家督相続できない次男・三男は婿養子の口が無い限り、実家で「部屋済み」、今風に言えば「子供部屋おじさん」と化すしかない。彼らにとって息軒のアイデアは、将来的に武士として自立するチャンスを与えるものであり、それなりに魅力的だったのではないかと思われる。

 さて、よく知られているとおり、明治2年に始まる北海道開拓政策は半農半兵の屯田兵制をベースとしているが、実はその初期において北海道移住は士族にのみ許されていた。それは北海道開拓政策が、廃藩置県と四民平等で失業した武士階級に対する再雇用政策を兼ねていたからである。その主要な提唱者が西郷隆盛だったことは偶然ではなかろう。

 ところが、黒田謙一《日本植民思想史》によれば、北海道開拓論は江戸時代中期から盛んに論じられているものの、内地からの移住者候補としてよく挙げられていたのは、まず囚人(流罪・島流し)であり、次いで寒冷地栽培に熟練した東北地方の貧農であって、武士を挙げている者は少ない。水戸斉昭が幕府に奏上して、”実子に家督を譲って、自らは水戸藩家臣らの次男・三男を引き連れて蝦夷地へ入植して北方警備にあたりたい”と言ったぐらいである。

 息軒〈蝦夷論〉は、北海道への開拓移住者の候補として「貧氓」と「刑徒」(囚人)に加えて、彼らを率いるリーダーとして”忠信にして才略有る者”を推挙している。この”忠信にして才略有る者”の身分は特に指定されていないが、当時の社会通念から言って平民を指すとも思われず、《救急或問》のこの段の内容と合わせて考えれば、おそらくは武家の次男・三男を想定していたと考えられる。

 息軒〈蝦夷論〉が武士を用いた屯田兵制を説いているとするならば、それは明治初期の士族を中心とした北海道屯田兵制を先取りしたものといえよう。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?