25 July 1992

出国手続きの際、ゲートをくぐると「キンコーン」と鳴った。

 1992年7月25日、北京語言学院に夏季短期留学するために、福岡国際空港から大連経由で北京へ向かった。当時の広島には広島西飛行場しかなく、国際線は離発着していなかったので、新幹線で福岡まで移動して、そこから中国行きの飛行機に乗った。
 鳴ったのは、ベルトのバックル。このベルトは父親のお下がりで、40代で千切れるまで使い続けたが、その後も何度と無く空港のゲートで引っかかり、ボディチェックを受ける原因となった。

9 September 2022

飞机の内ではChina Dress ぽい服のスチュワーデスが、太もももあらわに足を組んでいるのに感动した(SY谈)。機内食のジュースはぬるい。ワインとお茶はうまい。食事は「HKちゃんライス」を思いだしながらたべた。

 「感動した」のは太ももがセクシーだったとかそういう話ではなく、CA(当時はスチュワーデスといった)の態度にとても横柄なものを感じたから。日本人の感覚としては、CAが客前で足組んで座っているなど絶対ない。「さすがは社会主義国、噂通り、サービスが悪いぜ」と感動した。ただ、これは1992年当時の話であって、30年経った今、中国の航空会社といえど、こんなことは決して起こらない。

9 September 2022

 当時の中国では「冷たい飲み物」という概念は一般的ではなかった。だからビールもコーラも、どこへ行っても常温で、閉口したものだ。この時、機内食で出てきたのは、トマトジュースだった。トマトジュースが嫌いな私は最初から頼まなかったので事なきを得たが、SYは飲み干すまで許してもらえなかった。
 「許してもらえなかった」というのは比喩ではなく、文字通りの意味で、Sがトマトジュースを下げるようにジェスチャーしても、CAは「いや、残すな、全部飲め」といって譲らなかった。SYが「太浓了」と伝えると、水を持ってきてトマトジュースの残っているコップに注ぎ、薄めてくれた。SYはそれ以上は面倒くさくなって、無理して飲み干した。

9 September 2022

大連にて、スチュワーデスが後部入口をあけると、すかさず脱出用のスベリ台がふくらんだ。

「をを~!! 中国では降りる時にスベリ台でいくんかぁ!!」

と思い、写真をとろうとすると

「No! No!」

と手で制された。どうやら操作を誤っていたらしく、くそ暑い大連に足止めをくっている。今、健康診査の為、くそせまい部屋にみなして押しこめられている。まったく、事情を说明するくらいしてほしい。

 大連でトランジットすることになっており、大連まで乗ってきた飛行機に乗り直して北京へいくのは予定通りだったが、スチュワーデスが緊急脱出用の滑り台を作動させてしまったらしく、それを収納し終わるまでかなり長い間、大連空港の一角に乗客全員押しこめられて、待たされた。クーラーもなく、座る椅子もなく、謝罪もなく、説明すらなかった。
 最初は入国のための健康診断と聞かされていたが、健康診断は結局実施されなかった。中華圏の管理者は「ウソも方便」というか、この手の「群衆を誘導するためのウソ」を平気でつく。無責任とかいい加減というのではなく、子供にジュースと騙して薬を飲ませるようなそんな感じ。この手のウソ、つまり興奮する群衆をなだめるためにつくウソは不誠実ではなく、「聞き分けのない子供をうまくノセてコントロールする」テクニックであり、聡明さと受け止められている。東アジアにおける「君は父、民は子」というのは、こういうことを言っているのだと、2022年ごろにはわかった。

2 November 2022

何の説明もないまま、蒸し暑いへやに。全く日本人というのは我慢づよい。もしここにアメリカ人かHKがいたら、

「Hey!!どういうことなんだ、客を何だと思ってやがる 説明しろ!!」
と大騒ぎになっているだろう。
このサービスの悪さこそが、共産圏のトクチョーなんだろうか。

 アメリカ人を買いかぶりすぎである。彼らだって、言っても無駄、言うと下手すると拘束されると分かれば、従順である。コロナ禍の中国でそのことを知った。
 同調圧力の高さという点では、アメリカ社会は日本社会以上の側面があると、今では認識しているが、当時の私は「アメリカ人は全員が個人主義で自由主義で自己主張が激しく、空気なんか絶対に読まないんだ」と”理想化”していた。

9 September 2022

飞机が遅れたせいで、様々なハプニングが続出した。

 SYはトマトジュース120%を机内で注文して苦しんでいた。

 大连で 戦闘机を発見。

 父さんのそっくりさん(横顔)発見

 北京にいくと、むかえの人がいない!!「帰ったのか?」

”ん~、琉球言語大学21人、しゅん天大学、県立広大のプラカードの人をつかまえておけばよかった。”・・・NDさんは、今、八方手をつくしている。

 NDさんは同じ研究室の先輩で、当時は修士1年だった。今は某学で教授をしている。最年長ということで引率者っぽい役割をしていたが、この時点でNDさんも中国語は全く話せないし、年齢もまだ23歳に過ぎない。しかし、50歳を過ぎた今思い返しても、現在の自分より年上だったようにしか思えないから、不思議だ。

9 September 2022

 腹へった。金はあるけど、くいもの屋がない。困った。現在21:33。

 売店のネーチャンに、このビスケットくれ、というと
 「买(光)了!!(うれた)」「没有(ないよ)」
と一蹴された。なにも あんなにキツクいわなくたっていいやんか。

 当時の中国は、改革開放が始まってすでに10年以上立っており、「万元戸」も生まれていたが、従業員の態度はどこへ行っても総じて「給料が増えるわけでもないから、頑張って働くのはバカのすること」というものだった。当時の私は、バブル景気のクライマックス、「24時間戦えますか!?」というCMが流れている日本から来たので、そうした中国人従業員の態度を「無責任だな。仕事なんだからちゃんとしろよ。給料の高い安いは関係ないやろ」と批判的に眺めていた。時に平成4年、昭和が終わってまだ3年も経過していないから、20才の大学生といえども昭和脳である。
 しかし「失われたン10年」、「就職氷河期」、「平成ブラック社会」を経た今、当時の自分の考えよりも、むしろ中国人従業員の態度にシンパシーを感じる。

17 April 2024

 特に当時は中国人が使う紙幣(不換紙幣)と外国人が使う紙幣(兌換紙幣)は分かれていて、後者しか外貨に換金できず、また市場でも後者でしか購入できない商品(高級嗜好品など)があった。それで、中国人は外国人用紙幣を欲しがり、例えば外人用100元と中国人用120元と交換してくれという話を持ちかけられることが、ままあった。
 北京空港で、NDさんがあちこち連絡を取っている間、上述の通り腹が減ったので何か食べようと思い、日本円を人民元に換金したのだが、換金するや否や、胡散臭い雰囲気をまとわせた中国人が近づいてきて、上述の取り引きを持ちかけてきた。で、断った。相手の紙幣が本物か偽札か判断でいないからだ。今にして思えば、偽札だったら逆に面白いと思って、少し交換してもよかった。だが当時は、まさに路頭に迷っている状態だったので、そんな余裕はなかった。 

9 September 2022

結局タクシーで北京語言へ

 黄色い小型バスのようなものに、全員(?)で乗った。一人につき、まあまあの料金、といっても、日本のタクシー料金を思えば、バブル最末期の日本から来た我々にとってはたかが知れていた。けど、あの若いドライバーと車掌は大儲けだろう。 

9 September 2022

途中で大雨にフラレ、皆、口数がへる。学院についてからも、とまる寮がわからず、

「su号へいけ。」

といわれ、NDさんは西れんと思い、僕は4号と思ったが、なんと「上海の人は十をsuって発音するんだよ。」というオチがついた。

 南方の中国語方言には捲舌音がない。台湾なども同じ。今なら四声で「十」(shi 2声)と「四」(si 4声)で聞き分けられるのだが。というか、紙に書いてもらえば済んだ話だ。当時は声調が聞き分けられず、しかもshiとxi 、siとsu も聞き分けられなかった。

9 September 2022

で、結局夜中の12:40頃に、男は6号 女は11号へ入って一件落着。

その後、なぜか30元とられたが、ま、どうでもいい。

 さあ寝よう。

 軽く書いているが、大変だった。雨は降ってるし、荷物は重い。中国の大学だから敷地がむやみに広く、足元は凸凹して歩きにくい上、あちこちに深い水たまりができていて、何より街灯のたぐいがなく、暗い。そして、誰も案内してくれない。「日本人なら、困っている外人がいたら案内してやるもんやがな。やっぱ中国人よな」と思いつつ、「どんな苦労も次の日になれば笑い話よ」と励まし合いながら敗残兵のように真っ暗な校内を足を引きずりながら歩いていた。

9 September 2022

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