安井息軒《時務一隅》(一)02c

02-04 近年廟堂の御樣子、巷説にて承り候ふ處、天下の事、大略閣老方御取り計らひにて、外夷猖獗の事抔も、詳らかに御聞に達せざり候ふ由、此の儀は壅蔽と申し候ふて、古より天下衰亂の本と致し候ふ事に御座候。尤も君上御配慮の儀、御心遣ひ成され候ふより起こり候ふ事にて、其の實は忠義の心より出で候ふ事にも之れ有るべく候へども、古人は此れ等の事を、「婦寺の忠」と申し候ふて、奥女中・御坊主等相應の心掛けにて、「大臣の君に事ふる道」とは致さず候ふ。

意訳:近年の政堂のご樣子について、巷(ちまた)の噂でお聞きしましたところ、社会(天下)の事は、ほぼ老中の方々がお取り計らいになって、外国人どもが勢いを増している事なども、家茂将軍は詳しくはお聞きになっていないとのことで、この問題は「壅蔽」(ふさぎおおう)と申しまして、昔から社会が衰退して混乱する原因としております事でございます。
 もっとも、ご主君が御配慮の件も、〔臣下への〕お心遣いをなされることより起こります事で、〔臣下の対応も〕その実忠義の心より出る事もありえますけれども、昔の人はこれらの事を「婦寺の忠」と申しまして、奥女中や坊主などが彼らなりの〔浅はかな〕心掛けですることで、大臣が君主に仕える道とはいたしません。【★】

補注:
★とりあえず訳したものの、この2段落目は意味が今ひとつ判然としない。原因は次の二点。
 ①「君上御配慮の儀」「御心遣ひ成され候ふ」が何を指すか分からない
 ②「婦寺の忠」「大臣の君に事ふる道」が何を指すか分からない。 

余論:2段落目について。1段落目の内容と関連付けて解釈すれば、

 ①「天下の事、大略閣老方御取り計らひにて」という政治体制
 ②「外夷猖獗の事抔も、詳らかに御聞に達せざり候ふ」という家茂の現状

を批判しているのかと思われる。
 とすれば、2段落目の意味は、”家茂の方で老中を信任し、信頼の証として政治に口を挟まないよう遠慮していること(①)を受けて、老中の方でも年少の家茂を不安がらせまいと、外交通商問題などについて耳に入れないよう配慮している状態(②)が、「婦寺の忠」に過ぎない、すなわち”主君のために良かれと思ってとっている行動が、大局的には主君に不利益をもたらしている”、ここでは”老中たちの家茂の心理面に対する配慮が、結果として家茂から成長の機会を奪っている”と、苦言を呈しているのではないか。待考。
 なお文久3年、家茂は京都へ上洛して攘夷の勅命を受け、「外夷猖獗の事」に直面することになる。


02-05 何卒此れ等の宿弊御除き成され、少しにても重立ち候ふ事は、御聞に達し、御思慮遊ばされ候ふ樣、御取り計らひ成され候はば、自然智慮御長じ遊ばされ、萬一外蠻意外の變を生じ候ふとも、御轉倒遊ばされ候ふ儀之れ無く、天下の人心恃む所之れ有り、勇氣相倍し申すべく、關係する所輕んぜざる事と存じ奉り候ふ。

意訳:何とぞこれらの長年の弊害をお除きになって、少しでも主だった事は、家茂将軍もお聞きになって、御思慮あそばされますようお取り計らいになられましたなら、家茂将軍も自然と思考力がご成長あそばされ、万が一外国人めらがテロ(意外の變)を起こしましても、驚いてご転倒あそばされますことは無く、日本中の人民が心の中で頼りにし、その勇気を倍にいたし、関係するところは軽んじない事だと存じます【★】。

補注:
★とりあえず訳したものの、「關係する所輕んぜざる事」が何を指すか分からない。尊敬語も謙譲語もないので、主客は将軍家茂や老中ではない。

余論:萬一外蠻意外の變を生じ候ふ」とは、例えば欧米が砲撃を加えるような事件である。実際、文久4年には、幕府が欧米諸国と締結した条約に対して孝明天皇がなかなか勅許を出して追認しようとせず、逆に攘夷委任(通商条約の破棄・再交渉)を画策する動きが見えることなどから、しびれを切らした欧米が連合艦隊を大阪湾に送り込んで、朝廷に外圧をかけるという事件が起こっている。なお薩英戦争、四国艦隊下関砲撃事件も文久4年。
 段落末尾の「關係する所輕んぜざる事」は判然としないが、敬語表現が付加されていないため、主客に将軍や老中は該当しない。想像するに、「重立ち候ふ事」、すなわち時事問題や社会情勢に関係する事柄は、儒学の経典解釈と直接的には無関係だからといって、教えることをおろそかにしてはならないと言った意味ではないか。待考。


02-06 白川樂翁公御執政の時は、何事に依らず御聞きに達せられ、是非の御捌(さば)き、御伺ひ成され候ふ由、文恭院樣御老後、「我等若年の頃、大に越中に苦しめられたり。然れども其の蔭にて、少し物の道理も辨(わか)る事を得たり。添(かたじけ)なき事なりと仰せられ候ふ由、實否は存ぜず候えども、賢相の君に事(つかへ)られ候ふ御振合、左社(さこそ)と存じ奉り候ふ。

意訳:白川樂翁(松平定信)公が老中として御執政なさっていた時には、何事によらずお耳にお入れになり、厳しく是非をお捌きになり、〔11代将軍徳川家斉に〕御仕えになられた件について、文恭院(11代将軍家斉)様は老後に、「私たちは若いころ、越中守松平定信〔の厳粛なやり方〕にはたいへん苦しめられた。しかしながらそのお蔭で少しは物の道理も分かるようになった。かたじけないことだ」と仰られたとのことで、それが事実か否かは存じませんけれども、〔松平定信公という〕賢明な宰相(賢相)が主君にお仕えになったという取り合わせから、きっとそうだったんだろうと存じます。

余論:松平定信は11代将軍家斉の老中として「寛政の改革」を推進した。「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」と揶揄されるほど厳粛な政治姿勢から、やがて将軍家斉との間に対立を生じ、6年で老中を辞任する。その後、将軍家斉は奢侈にふけるようになり、「化政文化」が到来する。
 その家斉ですら、晩年に老中時代の定信との関係を振り返って「其の蔭にて、少し物の道理も辨る事を得たり。添なき事なり」と述べている。この逸話を、息軒は”臣下の態度こそが、君主の人格形成に大きな影響を及ぼす”という自身の教育論の好例として挙げている。


息軒と松平定信について
 余談になるが、息軒が《救急或問》で提言した政治改革の骨子、すなわち緊縮財政、債務放棄(デフォルト)、風紀粛清、質素倹約による物価の安定化、官吏の人員整理・定員削減、重農主義、小作人の離農対策、飢饉に備えての穀物備蓄などは、松平定信「寛政の改革」と相い通ずるところが多い。
 文久年間の終わり頃、息軒は幕府に対して白河へ代官として赴任することを希望する旨を伝え、昌平黌儒官を辞している。あるいは、これは松平定信が陸奥国白河藩主であったことと関係するのかもしれない。幕府は息軒の希望を聞き入れ、一旦は息軒を白河代官に任命したものの、結局、その高齢を理由に着任は見送られた。その後、息軒が昌平黌に復職することもなかった。
 なお、松平定信は「寛政異学の禁」で朱子学以外の儒学教学を禁じたが、彼自身は朱子学を信奉していたわけではなく、むしろ批判的であったという。一説によれば定信は古学を修めており、この点もまた息軒と共通している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?