安井息軒《時務一隅》(一)03a

(2巻5頁裏)

一、國の治亂盛衰ハ、賢不肖の取捨に依リ候儀、少し道理を辨ヘ候者ハ、

(2巻6頁表)

孰も存シ候事にて、申迨(およぶ)も無之候、然ども此を知る事ハ至て易く、此を行ふ事ハ極て難く候【①】、百年以來、人材御選擧【②】の儀、乍恐(恐れながら)其筋を失ひ候歟(か)と奉存候、總而士之本色【③】ハ、進に禮を以テし、退に義を以テする【④】者に御座候、清廉退讓【⑤】の風無御座候てハ、物の用に立不申候故、古人ハ第一に此儀を致主張、古語にも君子難進而易退(※君子ハ進メ難シモ退キ易シ)【⑥】と申候、然ル處百年以來、御選擧の樣子、窃に相伺候處、自身より御願不申候てハ、御番入り【⑦】も難成候由、況(まし)て要路【⑧】に當り候役義【⑨】ハ、其事ヲ主サドリ候役家【⑩】、並ニ權門【⑪】等に日々相伺ひ、其上内證【⑫】より手筋を以テ願立候事の由、是ハ大切なる御役人、又ハ御從衞【⑬】に御用ヒ被成候爲メに先ツ其廉恥【⑭】の心を爲先候御手筋に御座候、人として、廉恥の心を失候得バ、欲に耽り、利を貪り、己を先とし、君を後と致候故、國家の用に立候儀、極メて少ナク候、況て小吏無耻の徒に至てハ、他人の財を借請、賄賂に相用、願望を

(2巻6頁裏)

遂候事故、借財如山相嵩(※カサミ)、幸にして得一官者、必其役筋に隨ひ、賄賂を貪り、下民を虐(※シヒタ)げ、舊借【⑮】を埋め、猶又餘財を蓄へ、後來進官の本手と致候故、清廉の吏極て少く候、清廉の吏極て少く候得バ、上下の爲、一として宜敷事無御座候、是皆選擧の法不正より起リ申候、扠(さて)選擧の法種々御座候得共、大略當時【⑯】にハ相應不致、但周漢の世【⑰】に、郷擧里選【⑱】と申事御座候、是も周の世ハ、手數多ク候て、制度風俗不改候てハ、容易に難行、粗漢代の法を御參用被成候ハヾ、十の六七ハ間違ヒ申間敷候、其法、支配頭【⑲】より、年十五歳以上の男子、嫡庶【⑳】の差別なく、心得【㉑】身持【㉒】宜敷ハ、年々其廉(かど)を書出させ、三年續き、益宜敷相成候ハ其近鄰心得有之老人等ヘ、不時に御問合被成、愈無相違候ハヾ、俊秀帖【㉓】ヘ御付込被爲置、以後三年目毎に、右ノ通り可被成、格外【㉔】不行跡【㉕】の者も、可爲同樣候、此法相立候ハヾ、幕士【㉖】の賢不肖、預め相分り

(2巻7頁表)

可申候、但箇樣の筋にハ、私情贔負【㉗】の沙汰【㉘】起る間敷にも、無御座候間、其段ハ前以て支配ヘ嚴敷可被仰渡候、萬一善を惡とし、不才を才と致候儀、及露顯候ハヾ重く御咎可被仰付、被諭置候ハヾ、組頭其外組中、重立(※オモダヅ)候者にも相謀り可申、且差當り御用ヒ被成候譯にも、無御座候得者、取捨自ら正敷、十の六七ハ相違有之間敷候、尤才略傑出の者ハ、當時柔弱の風俗中にハ目立候故、凡庸の者ハ多く惡(※ニクミ)候者に御座候。古人も、人材ハ疵物に求めよ【㉙】と申候ハ、即此理に御座候、此等の者ハ、善惡とも、其行ヒ候處、世上に易知候間、御心を被盡候ハヾ御鑑定にハ洩レ申間敷候、幕士の外にも、心得宜敷、鑑識【㉚】ある者、必諸方に散在致候、以手筋是等も御問合被成候ハヾ益明白に相分り可申候、湯王【㉛】七年之旱に、雨を祈リ候節、女謁盛ナル與(※カ)、苞苴行ルヽ與(※カ)【㉜】と申候ハ、自身の罪を天【㉝】に尋候二箇条に御座候、女謁ハ奥向【㉞】の執リ成シに

(2巻7頁裏)

御座候、苞苴ハ賄賂に御座候、此二箇条ハ、他事に行れ候ても、大害を生じ候故、湯王も此罪を犯候歟(か)と、自ら心遣ひ、天に問被申候、況て治民安國の役人御選擧に、箇樣の儀行れ候てハ、乍恐國脈衰微の基と奉存候間、此二条ハ、嚴敷御禁制被成度候、(※(未完))【㉟】


注釈:
①此を知る事ハ至て易く、此を行ふ事ハ極て難く候:《尚書・説命中》「非知之艱、行之惟艱。王忱不艱、允協于先王成德、惟說不言有厥咎。」
②選擧:人材を選抜し、官吏に挙用すること。
③本色:本来の性質。
④進に禮を以し、退に義を以する:個人的利益ではなく、社会正義(禮義)を基準に出処進退を決める。
 《孟子・萬章上》孔子進以禮、退以義、得之不得曰「有命」。
⑤退讓:謙遜して人に譲ること。
⑥君子難進而易退:礼儀作法として、主君の前に出た時は「苦しうない、近うよれ」と言われても”恐縮してなかなか近寄れません”といった素振りを見せるが、「もうよい、下がれ」と言われたら速やかにさっと退出する。ここから、人間的に優れた人物(君子)は要職に抜擢しようとしても謙遜してなかなか任命に応じてくれないが、辞任する時の決断ははやい。
 《禮記・儒行》儒有衣冠中,動作慎,其大讓如慢,小讓如偽,大則如威,小則如愧,其難進而易退也,粥粥若無能也。其容貌有如此者。
⑦御番入り:江戸時代の制度で、まだ非役の小普請や部屋済みの旗本・御家人が選抜されて、小姓組・書院番・大番などの役職に任命されること。小普請については注⑲参照。
⑧要路:重要な地位。
⑨役義:役目、任務。
⑩役家:「役家」とは、検地帳に記載された農民で、屋敷を持っており、夫役を負担をする者。だが、恐らく息軒は、ここではある役職を世襲している一族という意味で使っている。
⑪權門:官位が高く、権勢のある一族。
⑫内證:内緒、内々に、こっそりかくれて。
⑬從衞:近従の護衛、近衛兵。
⑭廉恥:恥を知る心。
⑮舊借:古い借金、以前からある負債。
⑯當時:当今、現代。
⑰周漢の世:「周」は周王朝の時代、「漢」は漢王朝の時代。中国思想においては、後漢末期に仏教が伝来することから、仏教の影響を受ける以前の、中国本来の思想文化は漢代以前に限られるとされる。
⑱郷擧里選:中国で漢代に行われていた官吏の登用制度。地方の高官や有力者が、秀才や孝廉などの科目別に、その地域の優秀な人物を中央に推薦した。
⑲支配頭:恐らく老中に属する「小普請支配」の主任を指す。徳川家臣で1万石未満の者のうち「御目見」(将軍と謁見する資格を持つ者)以上を「旗本」、持たない者を「御家人」と呼ぶ。そして禄高3000石未満の旗本・御家人で非役(役職に無い者)を「小普請」といい、「小普請支配」に属する。
⑳嫡庶:嫡出と庶出。嫡出は正妻から生まれた子供、庶出は正妻以外から生まれた子供。
㉑心得:心構え、人格。
㉒身持:品行。
㉓俊秀帖:「俊秀」は才知に秀でた人物。「俊秀帖」とは、そうした人物の名簿。
㉔格外:並外れて、規格外に
㉕不行跡:品行が悪い。
㉖幕士:幕臣。徳川家臣のうち、1万石未満の者(旗本・御家人)を指す。
㉗贔負:贔屓(ひいき)。
㉘沙汰:行為。
㉙人材ハ疵物に求めよ:息軒《救急或問》にも同じ言葉が引用されている。
 荻生徂徠《徂徠先生答問書》:疵見え申し候えば人才は見え申し候。(中略〉疵物ならで人才はなき物と思し召され、疵物の内にて御えらび成さるべく候。
㉚湯王:紀元前18世紀頃、夏王朝の桀王を打倒して殷王朝を建国した聖王。
㉛女謁盛與、苞苴行與:「女謁」は宮中の女性がひそかに君主に拝謁して依頼をすること、「苞苴」は賄賂を意味する。収賄罪。君主が政務に関して、請託を受けたり、賄賂を収受して約束をすること。
 《荀子・大略》湯旱而禱曰「政不節與、使民疾與、何以不雨至斯極也。宮室榮與、婦謁盛與、何以不雨至斯之極也。苞苴行與、讒夫興與、何以不雨至斯極也」。
 《芸文類聚・祈雨》湯旱而禱曰「政不節與、使民疾與、宮室榮與、女謁盛與、苞苴行與、讒夫興與、何不雨至斯極也」。
㉜天:上天。殷代の「天」は、「上帝」と呼ばれる有意志的人格神である。殷代の神々は、どちらかといえば日本の神道の神々に似て、不満が高ずればタタリをなして生贄を要求し、供え物次第で融通を利かせてくれるデモーニッシュな神々である。周代の「天」は、「上天」という物言わぬ非人格神であるが、ヒトが道徳的に行動するよう期待しているとされ、君主の不道徳に対して災害・怪異現象を通じて警告を与えると考えられた。
㉝奥向:江戸城内で、将軍が私的生活を営む空間。大奥。奥向は当主以外の男子は立入禁止であるため、諸事は女性の手で処理された。
㉞女謁盛與、苞苴行與:「女謁」は宮中の女性がひそかに君主に拝謁して依頼をすること、「苞苴」は賄賂を意味する。収賄罪。君主が政務に関して、請託を受けたり、賄賂を収受して約束をすること。
 《荀子・大略》湯旱而禱曰「政不節與、使民疾與、何以不雨至斯極也。宮室榮與、婦謁盛與、何以不雨至斯之極也。苞苴行與、讒夫興與、何以不雨至斯極也」。
 《芸文類聚・祈雨》湯旱而禱曰「政不節與、使民疾與、宮室榮與、女謁盛與、苞苴行與、讒夫興與、何不雨至斯極也」。
㉟(未完):この”(未完)”は底本に付された注釈。

意訳:bで述べる。
「組頭其外組中、重立候者にも相謀り可、、且差當り御用ヒ被成候譯にも、無御座候得者」の意味がよく分からなかった。ひとまず「組頭と他の組員、主だった者にもご相談申し上げることができるし、そのうえ〔よく分からない人物を〕差し当たりご挙用になられるというわけでもございませんので」と訳した。

余談:息軒による人材発掘方法(賢不肖の取捨)。
 前節では”君主こそが国家の頭脳であり、国家の盛衰は君主の人格如何で決まる”ことを前提に、将軍家茂の人格形成に好影響を与えるため、周囲に儒臣・儒官や「志操有る者」などを配置することを提言した。本節では、それを受けて、そうした人材を発掘するための方法を解説する。

①長期にわたる観察評価制度の導入。
 「支配頭」に命じて、15歳になった人物は、嫡出か庶出かを問わず、その「心得身持宜敷」(善良で倫理規範を守る)行為を記録させ、3年目に特に目立つ人物について周辺に聞き込み調査を行って確認し、間違いがなければ「俊秀帖」(人材リスト)にリストアップする。
 その後も記録と3年毎の調査を継続する。「格外不行跡」(素行不良)な人物についても、同樣に記録を残す。

 ②評価担当者(支配頭)に対する査定。
 相応しくない人物が、評価担当者の贔屓でリスト入りしていたと判断すれば、評価担当者を罰する。

 ③リストから洩れた人材への目配り。
 才能が傑出した人物は凡人からヘイトを集めやすく、上記の人材リストから洩れてしまう可能性がある。だから、善悪問わず世間の耳目を集めている人物にはチェックを入れる。

 ④外部人材の検討:「幕士」(徳川家臣の旗本と御家人)以外からも、オープンに人材を求める。

 息軒は、現状、幕府内の人事がコネとワイロで決定されていると批判する。それを打破するべく上記の制度導入を提言するのだが、それでも息軒によれば、適切な人事を行える確率は「十の六七ハ相違有之間敷」、60~70%に過ぎないという。


 本節の内容は、あるいは組織内人事に通じるものがあるかもしれない。ただ国民主権の現代社会では、君主=主権者=現代の国民、臣下=主権者に選ばれる立場=現代の政治家、というふうに読み替えたほうが、得られるところも多いかと思う。

 そうすると、我々有権者は選挙(本節でも”選擧”という語句が見えるが)に際して、ほとんど候補者自身の情報に関心を払わないまま、ただその”清き一票を”という「お願い」(女閲)と”地元への利益誘導”(苞苴)だけで選ぶ。そうして当選した政治家が、全体の利益(国益・公益)よりも、一部(選挙地盤や支援団体)の利益を優先するようになるのは、ある意味、当然のことだろう。

  また息軒は3年毎に業績を査定評価し、さらに評価担当者が贔屓していないかをチェックする仕組みの導入を提言している。民主主義国家において、政治家の業績を査定評価するのはメディアの役割だが、そのメディアが公正であるか否かをチェックする仕組みはない。
 仕組みが無い理由は、単に”「不公正だ」と国民に判断されたメディアに対しては視聴者離れや購読者減少が生じ、自然と淘汰されていくはずだ”という想定になっているからだが、実際メディア離れが進んで、SNSなどネットの口コミのほうを信じるヒトが増えていき、今度はフェイクニュース問題を生むに至った。
 フェイクニュース問題が認識された2020年米国大統領選挙では、主要SNS各社が一方の候補者の投稿を規制したが、そのSNS各社の判断が公正だったか否かを評価する仕組みはない。
 結論めいた事を述べれば、大手メディア各社とSNS各社が相互監視する緊張状態になればいいと思う。そのためには、テレビとネットの融合など、法律なりで規制して、阻まねばならない。そうして互いに互いの嘘を暴きあってくれることが、我々有権者の利に適うと思う。
 



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