安井息軒《救急或問》01

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救急或問
日南 安井衡著


一或人問テ曰、今日ノ勢、外寇内亂ノ兆(きざし)日ニ相迫マリ、加之(之に加えて)物價沸騰シ上下困弊ス、民社ノ責メアル者、先ヅ其國ヲ富マサザレバ、上ニ事ヘ下ヲ安ンズル ヿ(こと)能ハズ、其道如何。

一答テ曰、治國ノ道、布テ聖經賢傳ニアリ、別ニ簡便奇妙ノ法ナシ、其要ヲ摘ンデ之ヲ言ヘバ修身明德(身を修めて德を明らかにする)ヲ以テ本トシ、舉賢使能(賢を舉げ能を使ふ)ヲ以テ用トシ、然ル後ニ官制ヲ定メ、法度ヲ正シ、材ヲ生ジ用ヲ節シ、之ヲ助クルニ賞罰ヲ以テス、此事人人能ク言ヘドモ能ク之ヲ行フ者少ナシ、國ノ収マラザル所以ナリ、今試ミニ其畧ヲ言ハン、其詳ナルヿハ聖經・賢傳・律令・格式等ニ就テ考究スベシ。

意訳:ある人が私に尋ねて言うには、今日の情勢を見るに、外国の侵略や国内の内乱の兆候が日に日に切迫しており、これに加えて物価が高騰して上も下も(政府も民間も)困窮疲弊しています。人民と社稷(=国家)に責任を負う者としては、まずその国(藩)の経済力を豊かにしないことには、上の者に仕える(公務に専念する)ことも下の者を安心させる(人民が安心して暮らしていけるようにする)こともできません。そのためにはいったいどうしたらいいでしょうか。
意訳:私は答えて言う。国を治める方法は、儒家の経典(聖経は孔子が編纂した五経(易経・詩経・書経・礼経・春秋)。賢伝は孔子の高弟が執筆した解説(例えば詩経毛伝、礼記の大学・中庸、春秋左伝など))に書かれている。それ以外に、簡単な裏技(奇妙の法)みたいな方法などない。

 その要点をかい摘んで言えば、普段から身の行いを正しくして(修身)、周囲にとっていい人であるよう心がけること(明徳)を基本として、ちゃんとした人をリーダー役として登用して(挙賢)スキルのある人を雇用し(使能)、その上できちんとした官僚制度を制定して、官僚組織内のルールを公正にして、政府の財源を創出して財政支出を節約し、補助的に人民に対して賞罰を使用する。こんなことは誰でも言えるけど実行できる人は少ない。国(藩)が治まらない原因だ。

 今からちょっと概略を話してみよう。詳しいことは、儒家の経典とか法律集とか礼儀作法などに沿って、自分で深く研究してみるといい。


余論:安井息軒の政治論の序文。いかにも儒家的・漢文的フレーズのオンパレードで読み飛ばしそうになるが、会社組織論として見れば、いたって現代的なことを言っている。

本段落には、重要なポイントが三つある。
    一点目は、質問者が急激な国際化(開国)によって経済の先行きが不透明になってきたことを理由に、収益重視(富国)路線へ転換すべきではないかと質問したのに対して、息軒がリーダーの「修身明徳」、今風にいえばモラルや社会的コンプライアンスの遵守を最初に強調していることだ。
    二点目は、続けて「挙賢使能」、すなわち優秀な人材の雇用・確保と適正な人事配置を挙げていること。
     三点目は、そのうえで所謂る組織改革、つまり組織内の制度やルールを整備し、新分野の開拓とコストカットを並行してすすめる。メンバー(会社であれば従業員)に対する業績評価はあくまで補助的に用い、メインに据えない。

   日本で収益優先の企業が批判を浴び、企業コンプライアンス(修身)が重視され、企業の社会貢献(明徳)が求められるようになったのは、21世紀に入ってからではないかと思う。90年代はブラック企業という言葉も概念もまだなかったし(「ブラック企業」というネットスラングの出現は2001年)、企業の環境対策も今ほど当然視されていなかった。
 そうして考えると、令和の今だからこそ、儒教的なるものから学びうるものがあるのではなかろうか。 


余論の余論
 「修身明徳」といわれると、いかにも封建的で前時代的で、現代社会に於いてはもはや無用の長物といった印象がある。だが、今風に翻訳しなおせば「修身」とはコンプライアンスであり、「明徳」とは社会貢献であり、どちらも近年、個人と組織の双方に要求されていることだ。

 特に個人レベルでいえば、SNSの普及によって、うかつな言動が即座に炎上→特定→社会的死亡を招く現代でこそ、「修身明徳」はその重要性を増していると思う。もちろん修身明徳の内容そのものは、アップデートされねばならないが。
 現代社会では、いつどこで誰がスマホで自分の言動を録画しているか分からないのだから(天網恢恢疎にして漏らさず)、24時間常に気を張っていなければならないし(これが修身)、”勝ち組”になりたければ「いい人キャンペーン」と「意識高い系」を組み合わせて積極的に発信していかなければならない(これが明徳)。

 もう少し拡大して言うと、SNSで「いいね」をもらうことが現代社会における「徳」の積み方であり、フォロワー数はそのまま可視化された「徳」の高さと見なし得る。フォロワー数の多いヒト(有徳者)は、一定の社会的影響力を持つものと信じられ、たとえ民間人であってもインフルエンサーと呼ばれるほどになれば、企業や政府も彼らの投稿を無視できず、アドバイザーとして招いたりして協働を持ちかけられるようになる。
 春秋戦国時代の中国でも、権力者が有徳者とされる人物を招き、礼を尽くして教えを乞うたという話がある。例えば魏の信陵君と門番の老人の説話が有名だが、現代に置き換えれば、役所が地元の有名Youtuberを式典に招いて貴賓席に座らせたようなものだろう。

 もちろん炎上リスクを避けるべく、「SNSなんぞ一切やらない」という選択肢もあり得るが、それは儒学ではなく老荘思想の発想であって、現代社会においては「隠者」(陰キャラ)として生きていくことに他ならない。心の平安は得られようが、社会的に”勝ち組”とは見なされないし、ビジネス面では不利になる。

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