安井息軒《救急或問》04

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一凡ソ人材ヲ鑑定スル法、詐僞矯飾ノ心アル者、外貌端正柔和ニテモ必(かならず)姦人ナリ、天性楚忽簡畧ニテモ、天眞爛漫タル者ハ、必ズ用ウベキ所アリ、又世人ノ毀譽に拘ハラズ、君大夫ヲモ物ノ數トセズ、己カ爲シ度(た)キ儘(まま)ニ立チ振舞フ者アリ、世俗ハ名ヅケテ狂人トスレドモ、此類ノ中ニ勝(すぐ)レタル人材有ル者ナリ、古人ノ人材ハ疵物ノ中ニ求メヨト云ヘルハ是レナリ、孔子モ衆惡之必察焉(衆之を惡むも、必ず察す)ト申サレタリ、此等ノ人ハ心ヲ付ケテ能ク窺フベシ、其人ニ異ナルヲ以テ、一概ニ之ヲ見棄ツルハ人君タルノ量ニアラズ。

 大まかに人材を鑑定する方法。真実を偽ったり上辺を飾り立てて取り繕うの心の持ち主は、たとえ外見が整っていて柔和に見えても腹黒く悪賢い人間である。生まれつきそそっかしく単純と思われても、天真爛漫な者は、必ず登用すべき長所がある。
 また世間の人々からの毀誉褒貶を意に介さず、君主や大臣も物の数とせず、自分がしたい事をしたいがままに行う者がいる。世間一般では彼を「狂人」(へんな人、頭がおかしい人)と呼ぶけれども、このタイプの中にこそ優れた人材がいるものだ。荻生徂徠という昔の人が《徂徠先生答問書》の中で「人材は疵物の中に求めよ」と言っているのは、このことである。孔子も《論語・衛霊公》で「その人のことを大勢の人が嫌って悪く言っていても、私は必ず自分の目で見てどんな人かを判断する」とおっしゃっている。こうした〔狂人と言われたり、みんなに嫌われている〕人には気をつけて、様子をそっと観察するべきである。人と違っていることを理由に、一様にその人を切り捨てるのは、君主たる者の器でない。

余論:儒家の人材論と言えば、協調性や倫理性、忠誠心ばかりを重視するあまり、「無能な働き者」や「杓子定規で融通がきかない前例踏襲主義者」「真面目バカ」ばかり集めてしまい、結果的に組織の競争力を失わせる……という印象があろう。だが、息軒がここで言っていることはむしろ現代的な人材論であり、むしろITベンチャー企業の雇用案内欄や大学の受験生向け案内欄で引用されていても違和感がないほどだ。

 そもそも幕末期の日本では、諸藩が競って藩政改革に取り組んでおり、その一環として家格にとらわれない人材抜擢に努めていた。明治維新に貢献した人物の中には、そうして抜擢を受けた者が少なくない。息軒の人材論は、そうした当時の思潮を伝えるものだろう。

 なお息軒がここで「古人」と称して荻生徂徠の言葉を引用しているのは、思想史的に重要だと思う。というのは、徂徠学派は徂徠の死後急速に衰退したと一般的には言われているからだ。丸山真男は《日本政治思想》において徂徠学のなかに日本的な近代思想の萌芽を認め、それが福沢諭吉の近代思想と偶合すると述べたが、同じことは息軒にも言えるはずである。(というか、福沢諭吉の前身として150年前の荻生徂徠まで遡らずとも、同時代の先行者に息軒がいるよね?っていう・・・)

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