安井息軒《時務一隅》(六)後段・完

(20巻9頁表)

一 世故【①】紛擾【②】にして、治め難き節ハ、與民更始【③】【④】(民と更始す)と申候て、大赦を行ひ候事、古より多く相見え申候、今日の時勢、夫程までにハ至らず候へ共、四年前の大獄【⑤】以來、兎角人心貼服【⑥】不仕(仕らず)、中にハ義徒の名を假り、亂を好候徒有之(之れ有り)、外櫻田【⑦】を始とし、種々の變事致出來(出來致し)、其徒少なからざる事と相見候、是等ハ所謂反側子【⑧】にて、强く御憎み被成(に成られ)候へバ、無餘義(餘義無く)騒動をも引出可申(申すべく)候、犬猫の類、追流しに追候へバ、何處までも候て、迯【⑨】(にげ)候て、人にも手向ひ不致(致さず)候へ共、四方を立こめ、必これを殺さんと致候へバ、力の敵せざるを知候ても、爪をたて齒を掛候ハ、其身の必死を逃んと致候故に御座候、今日の勢、少し右

(9頁裏)

に相類し候處御座候間、大赦【⑩】仰出され、人殺以下の者ハ、盡く御宥免【⑪】被成度(に成られたく)候【⑫】、漢の高祖を寛仁大度【⑬】と稱し、人主第一の美德と致し候、古語にも川澤納汙【⑭】、國君含垢(川澤汙を納れ、國君垢(はじ)を含む)【⑮】といひ、國君而讎匹夫、懼者必【⑯】眾(國君にして匹夫に讎(むく)ひれば、懼(おそ)るる者必ず眾(おほ)からん)【⑰】とも申し候、人君ハ尊位に據、大權を握候へバ、何事も心の儘に相成筈に候へ共、左樣致し候てハ、意外の變生し候故、古の賢君ハ、寛弘にして道を道とし、匹夫下郎と理非を較(くらべ)候事無御座(御座無く)候、此皆今日の好(よ)キ手本と奉存(存じ奉り)候、大赦出候て、志を改め、良民に相復し候へバ、是亦人君の赤子に御座候間、此上なき美事に御座候、若(もし)猶不改(改めず)候ハヾ、此度幸に罪を免候ても、久からずして其身を失候事、眼前【⑱】に御座候、然バ彼等死生の間に、御心を被殘(殘され)候義【⑲】、毛頭無之(之れ無き)事に御座候、是迄の大赦ハ、必御國忌【⑳】の節、被仰出(仰せ出され)候へ共、此甚不宜(宜(よろ)しからず)候、人君の恩德を僧侶に御與へ被成(に成られ)候筋にて、人皆佛法の難有(有り難き)を知て、君德の

(10頁表)

可貴(貴ぶべき)を知らず、禪宗の御追福【㉑】の道ハ、外に如何程も可有之(之れ有るべく)候間、大赦の命ハ、必人君の思召より出候樣被成度(に成られたく)候、然共(然れども)祖宗【㉒】の舊典、俄に御改兼被成(に成られ)候儀も可有之(之れ有るべく)、平生の大赦ハ、强てハ難申(申し難く)候へ共、此度の儀ハ、是非とも御國忌の外にて、被仰出度(仰せ出されたく)候、左樣無御座候てハ、反側子の心を服するに足らず候、巷說にて承候へバ、中山大納言殿【㉓】の元家來、田中河内介【㉔】と申者、某中將【㉕】の旨趣を奉じ、聖輿親征の勅旨【㉖】を書取、同志の者に相渡し、中國九州筋遊說爲致(致させ)候由、今上皇帝【㉗】にハ、叡明に被爲渡(渡せられ)候由、右體輕卒の義被仰出(仰せ出され)候筈、決して無之(之れ無く)、某中將ハ如何成ル人物に候や不承(承らず)候へ共、全體此等の儀ハ、身の置所なき浪人亂民等の致す事にて、官祿ある人の所爲(爲す所)にあらず、定て某中將の事も、詐謀より出候事と存候、其證ハ去四月廿三日、薩州人於伏見(伏見に於ひて)同士打【㉘】いたし候本を尋ね候に、右河内介、浪人共を

(10頁裏)

誑惑致し、錦の御旗一流ハ、旣に禁裏より島津和泉【㉙】に下し置れ、今一流ハ、浪人衆へ御渡に御決著(けっちゃく)相成候間、速に所司代【㉚】を打取候樣申聞候より起候事の由、誠に變詐不測の曲者(※クセモノ)に候間、其申す所、一事も信用難成(に成り難く)候、然バ某中將の旨趣と申立候も、人を欺き候詐謀に相違有之(之れ有る)まじく候、愈如巷說候へバ、此者幷ニ外三四人の者共ハ、上ハ勅旨を矯(いつわ)り、次ハ幕府に反し、中ハ卿相を誣(し)ひ、諸侯を誑(あざむ)き、下ハ士民の心を惑亂し、此上もなき罪人に候間、其罪を明白に書取、不赦の料に被差置度(差し置かれたく)候、如此(此くの如く)御處置被成(に成られ)候ハヾ、恩威【㉛】並行ハれ、御盛德の事と奉存(存じ奉り)候、

注釈:
①世故(せこ):世間の様々な習わし
②紛擾:もめること。ごたごた。紛争。紛乱。紛糾。
③更始:古い物事を改めて、新しく始めること。新しく始まること。
④與民更始:旧弊を廃し、人民とともに新しい物事を始める。リセットする。《莊子・盜跖》“與天下更始、罷兵休卒“(天下と更始し、兵を罷(や)め卒を休ます)。《漢書・武帝紀》“朕嘉唐虞而樂殷周、據舊以鑑新、其赦天下與民更始”(朕は唐虞を嘉(よ)みして殷周を樂しみ、舊に據りて以て新を鑑み、其れ天下を赦(ゆる)して民と更始せん)
⑤大獄:安政之大獄(1858-1859)を指す。これにより、息軒が当時懇意にしていた藤田東湖の主君水戸斉昭が永蟄居となり、そのまま死去した。
⑥貼服:「服貼」と同じ。①(衣服が)体型にぴったり合っている様子、②従順な様。ここでは②
⑦外櫻田:桜田門外之変(1860年3月24日)。脱藩した元水戸藩士らが江戸城門外にて大老井伊直弼を襲撃し、これを暗殺した事件。尊皇攘夷運動が高まるきっかけとなった。
⑧反側子:「反側」は寝返りを打つこと。「反側子」は反乱分子。
⑨迯:「迯」字は「逃」字の異体字。
⑩大赦:恩赦の一つ。国家に吉凶のあった時、多くの犯罪者を許すこと。有罪判決を受けた者には判決の効力を失わせ、まだ判決を受けていない者には公訴権を消滅させる。
⑪宥免:罰を軽くするなどして、罪を許すこと。 大目にみること。
⑫大赦~度候:ここで息軒は、幕府に対して大赦を出すよう提言している。実際、本書が執筆された文久2年(1862)に、幕府は安政之大獄を井伊直弼の専断と認定して、獄についていた者たちを釈放している。さらに「和宮降嫁」の祝賀として、桜田門外之変・坂下門外之変を起こした尊攘志士にも大赦を出している。
⑬寛仁大度:度量が大きく、細かいことをとがめないこと。《漢書・高帝紀上》“高祖為人、隆準而龍顏、美須髯、左股有七十二黑子。寬仁愛人、意豁如也。常有大度、不事家人生產作業。”
⑭川澤納汙:「川」字、底本は「」字に誤る。今、《左伝・宣公15年》の「川澤納汙、山藪藏疾」に依り、改める。なお息軒の誤字か、出版社の誤刻かは未詳。慶応大学安井文庫の手稿を確認すべし。
⑮國君含垢:①君主は将来のことを考えて、一時的な恥は耐えるべきであるという教え。②君主には臣下の失敗を許す度量が必要であるという教え。ここでは②。《春秋左氏伝・宣公15年》“伯宗曰、「(略)諺曰、高下在心、川澤納汙、山藪藏疾、瑾瑜匿瑕、國君含垢」”(伯宗曰く、「(略)諺に曰く、「高下は心に在り。川澤汚を納れ、山藪疾を藏(かく)し、瑾瑜(キンユ)瑕を匿(かく)し、國君垢(はじ)を含む」と。
⑯必:底本の「必」字、あるいは「」字の誤りか。今は改めない。《春秋左氏伝・僖公24年》は「懼者眾矣」に作る。《国語・晋語四》は「懼者眾矣」に作り、副詞がない。待考。
⑰國君而讎匹夫,懼者必眾:《春秋左氏伝・僖公24年》”謂僕人曰、「沐則心覆、心覆則圖反、宜吾不得見也。居者為社稷之守、行者為羈絏之僕、其亦可也、何必罪居者。國君而讎匹夫,懼者甚眾矣”((文公)僕人に謂ひて曰く、「沐すれば則ち心覆(くつがへ)り、心覆れば則ち反を圖(はか)る、宜しく吾見るを得ざるべきなり。居る者は社稷の守と為し、行く者は羈絏の僕と為す、其れも亦た可なり、何ぞ必ず居る者のみを罪せん。國君にして匹夫に讎(むく)ひれば、懼(おそ)るる者甚(はなは)だ眾(おほ)からん」と)
⑱眼前:明らかである。
⑲義:底本は「義」字に作る。本書は多く「儀」字に作り、あるいは改めるべきか。待考。
⑳國忌(こっき):皇祖、先皇、母后などの命日。この日は政務を休み、追善供養の法要を行い、歌舞管弦を自粛した。
㉑追福:死者の冥福を祈ること。また、そのために行なう仏事。追善。
㉒祖宗:先祖代々の君主。君主の先祖たち。
㉓中山大納言殿:中山忠能(1809-1888)を指す。中山忠能は明治天皇の外祖父。開国ならびに諸外国と条約調印に反対する点で攘夷派だが、公武合体を主導して尊攘志士から憎まれた。禁門之変では長州藩を支持したことで孝明天皇の不興を買って失脚するも、明治天皇の即位によって復権。明治天皇に働きかけて、倒幕の密勅や王政復古之大号令を出させた。
㉔田中河内介(1815-1862):幕末の儒者で攘夷志士、幼少期の明治天皇の教育係を務めていた。尊攘派の薩摩藩士と組んで、公武合体を推進する京都所司代酒井忠義と関白九条尚忠への襲撃を計画するも、島津久光による「寺田屋事件」で頓挫。この際、中川宮の名を出して、偽造した勅書と錦の御旗を使って同志を集めた。なお、安井息軒の長女須磨子の夫である中村貞太郎(北有馬太郎)と義兄弟の契りを結んでいる。
㉕某中將(1824-1891):息軒は実在を疑っている。あるいは、中川宮久邇宮朝彦親王を指すか?。田中河内介は同志を集める際に、実在の中川宮の意向を騙っていた(とされる)。
㉖聖輿親征の勅旨:天皇親征の勅書。幕府を討つのか(倒幕)、諸外国を討つのか(攘夷)が判然としないが、息軒は捏造と断じている。
㉗今上皇帝:孝明天皇(1831-1867)。明治天皇の父、和宮の異母兄。開国ならびに条約調印に終始反対し、文久3年(1863)には上洛した14代将軍家茂に攘夷之勅命を出した。慶応元年(1865)、欧米諸国は大阪湾に艦隊を集結させて、孝明天皇に条約の勅許を出すよう圧力を掛けた。
㉘薩州人於伏見同士打:「薩摩藩志士粛清事件」、所謂る「寺田屋事件」「寺田屋騒動」を指す。文久2年4月23日(1862年5月21日)、薩摩藩の指導者島津久光(1817-1887)は朝廷の命を受けて旅館寺田屋に集結していた同藩の尊皇攘夷派を粛清した。
㉙島津和泉:今和泉藩主島津忠敬(1832-1892)を指す。安政6年(1859)に家督を相続し、文久3年(1863)に薩英戦争に参戦した。篤姫の異母兄。
㉚所司代:京都所司代酒井忠義(1813-1873)を指す。公武合体に尽力し、攘夷志士を厳しく取り締まったことで、強い恨みを買った。
㉛恩威:恩恵と威光、温かい情けと厳しい態度。


余論:息軒による大赦令の提言。
 息軒は、安政之大獄から5年間の間に桜田門外之変(、坂下門外の変)、寺田屋事件と大きな事件が立て続いている情勢を鑑み、あまり攘夷志士を追い詰めるべきではないとして、大赦を出すよう提言する。また従来の恩赦は、天皇家や徳川家の法事に託けて出されていたのを「人君の恩德を僧侶に御與へ被成(に成られ)候筋」として反対し、理由は何でもいいからあくまで「人君の思召」から出すべきだと主張し、「此の度の儀は、是非とも御國忌の外にて、仰せ出されたく候」と繰り返す。
 で、実際にどうなったかといえば、本書が書かれた文久2年(1862)には、水戸斉昭の7男徳川慶喜(後の15代将軍)が14代将軍家茂の後見役に着任していたこともあって、幕府は安政之大獄を井伊直弼の専断と認定して、獄についていた者たちを釈放している。さらに「和宮降嫁」の祝賀として、桜田門外之変・坂下門外之変を起こした尊攘派の志士にも大赦を出している。また、この年に幕府は赦律が制定し、翌年から施行されている。
 これを全て息軒の提言によるとするのは早計に過ぎるけれども、息軒の提言が当時の政治判断を先取りしている事実に違いはない。

 後半では寺田屋事件に言及し、「巷説」と断った上で、事件を田中河内介らが密勅を捏造して画策したものと説明し、田中河内介ら首謀者を「上ハ勅旨を矯(いつわ)り、次ハ幕府に反し、中ハ卿相を誣(し)ひ、諸侯を誑(あざむ)き、下ハ士民の心を惑亂し、此上もなき罪人に候間、其罪を明白に書取、不赦の料に被差置度(差し置かれたく)候」と批判したうえで、彼らは大赦の対象から外すよう主張する。

 ちなみに田中河内介は、かつて中山忠興に仕え明治天皇の教育係を務めていたが、中山忠興が公武合体を支持したことで袂を分かった後、中村貞太郎(北有馬太郎)と義兄弟の契りを結び、尊王・攘夷・倒幕を掲げる「虎尾の会」リーダー清河八郎とも交流するようになる。中村貞太郎が、安井息軒の弟子であり、息軒の長女須磨子の配偶者であり、息軒の外孫安井小太郎の実父であることは、いまさら言うまでもない。
 さて、息軒が《時務一隅》を執筆したのは文久2年、旧暦4月23日の寺田屋事件に言及しているので、これ以降のことと思われる。この寺田屋事件の頃、中村貞太郎は清河八郎の逃亡を幇助した咎で投獄中であり、事件後の旧暦6月14日に獄死する。一方、幕府は旧暦7月20日に大赦を裁可、8月19日には朝廷から幕府へ大赦(「寺田屋事件」関係者を含む)を求める勅命が下され、11月28日には大赦が実行された。もし中村貞太郎があと半年生きながらえていたなら、晴れて無罪放免となったはずであり、須磨子・小太郎両名のその後の人生も随分と違ったことだろう。

 息軒が《時務一隅》のなかで老中に対して、”旧例にとらわれず、早急に大赦を出すべきだ”と提言する時、その脳裏に優秀な弟子であり、すでに離縁済みとはいえ(新居を訪ねた息軒が目のやり場に困るほど長女がデレデレしていた)娘婿の中村貞太郎を、何とか助けてやりたいという気持ちが全くなかったとは、言えないだろう。

訂正。本記事は『コトバンク』が中村貞太郎の没年を文久2年とするのにもとづくが、中村貞太郎が獄死したのは文久元年であり(日付については6月14日とも9月3日とも)、息軒が老中より下問を受けた時点ですでに死んでいる。[2023.12.11 記]

 長友禎治〈幕末維新期に活躍した振徳堂の儒者たち〉によると、息軒が江戸へ去った後の飫肥藩では、藩校の振徳堂(息軒の父滄州が初代教授、息軒が初代助教を務めた)を優秀な成績で卒業した若者を江戸へ遊学させ、息軒の三計塾に入塾させることが慣例となっていた。
 稲津済(1834-1898)もその一人で、彼は嘉永6年(1853)に江戸へと遊学して三計塾に入塾している。その後は、飫肥と江戸を往来していたが、問題の文久2年(1862)4月には藩命を帯びて京都の情報を収集し始め、7月(つまり寺田屋事件の後)には藩の指示で実際に京都を訪れ、その際に攘夷倒幕派公家である三条実美(1837-1891)・姉小路公知(1840-1863)・大原重徳(1801-1879)と会合し、”飫肥藩主は上洛して、朝廷に忠誠を示すべきだ”と迫られる。
 稲津済は江戸の飫肥藩邸へ戻って藩主伊東祐相を説得し、同意を得る。まず、その年には藩主の嫡子伊東祐帰が江戸から飫肥へ帰国し、翌文久3年(1863)7月には藩主伊東祐相自身が江戸から上洛して孝明天皇に謁見し、勅書(攘夷?倒幕?)を得た。
 こうして飫肥藩は、諸藩が勤王派と佐幕派に割れて苦慮するなか、早期に勤王(倒幕?攘夷?)で藩内意志を統一し、来る戦いに備えて軍制改革を進めることとなる。
 ただ飫肥藩は薩摩藩と領界を接し、山林の領有権問題で長年揉めていたこともあって、勤王派ではあっても薩摩藩の勢力が伸長することは望まず、それがために明治新政府への恭順が遅れ、その結果、戊辰戦争では後方支援に回されて軍功を挙げる機会を与えられず、飫肥藩士は大いに面目を失うことになった。(これがために、後の西南戦争において、飫肥士族の多くが名誉回復を図って西郷軍に身を投じ、奮戦することとなる。)
 ちなみこの稲津済も清河八郎と旧知の仲で、文久2年(1862)の京都探索に先立って、清河八郎を訪ねようとしている。

 以上は長友氏の論考によるところだが、さて、問題は息軒がこうした水面下の動向について関知していたか否か、ということだ。関知していたという証拠はないが、息軒と藩主伊東祐相の信頼関係を思えば、この一件について息軒が全く知らされていなかったと考えるのは不自然かと思う。
 知っていたとすれば、どういう気持ちで「某中將は如何成る人物に候ふや承らず候へ共、全體此等の儀は、身の置き所なき浪人・亂民等の致す事にて、官祿ある人の爲す所にあらず、定めて某中將の事も、詐謀より出候ふ事と存じ候」と書いたのか、非常に気になるところだ。
 ただ、密勅の件を知っていたと仮定すれば、合点がいくことが一つある。息軒は、実はせっかく任命された昌平黌儒官の職を早々に辞している。表向きは代官として白河に赴任するという名目だったが、代官赴任は高齢を理由にキャンセルしてしまう。その後も昌平黌儒官へ復帰することはなかったが、三計塾の経営は継続し、むしろ最盛期を迎えようとしていた。
 一見すると、何がしたいのかよく分からない一連の行動も、文久3年の時点で飫肥藩が直に倒幕の密勅を得た(ないしは得る)ことを息軒が知り、飫肥藩に義理立てして、幕府から距離を置いたのだと考えれば、辻褄は合う。
 

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