安井息軒《時務一隅》(六)前段c

27-01 十組問屋は、甲州の姦民茂十郎と申す者、諸品問屋を相ひ定め、冥加と爲して金子壹萬兩を、問屋共より、年々差し上げ候ふ樣仰せ付けられたき段建議致し候ふ處、時相その言に迷はれ、御取り立てに相ひ成り候ふ。
 茂十郎の事は、右體の事には才覺之れ有る者故、暫時御用ひに成られ候へ共、その後姦惡相ひ顯(あら)はれ、御誅戮を蒙り候ふ。
 然れども十組はその儘(まま)立て置かれ候ふ儀、上官の方は、下情に深く御通し兼ねに成られ候ふ義も之れ有り、その害詳らかに御存知之れ無き故と存じ候ふ。

意訳:〔菱垣廻船を使う海運業者組合である〕十組問屋については、甲州(山梨県)の奸民〔で、そのやり方から「毛充狼」と呼ばれた〕杉本茂十郎と申す者が、〔幕府に〕諸々の物品を独占的に扱える問屋を定めて、〔その見返りに〕雑税(冥加金)として金子1万両を、問屋どもより毎年幕府へ上納しますよう申し付けてほしい旨を上申いたしましたところ、時の老中(時相)はその言葉に惑わされ、上申をお取り上げになりました。
 杉本茂十郎については、右のような〔問屋どもを統率して大金をかき集めるような〕事には才覚がある者なので、〔幕府も〕一時的にお使いになられましたけれども、その後、その心がねじけて悪どいこと(姦惡)が明らかとなり、〔幕府の〕ご誅戮を受けました。【①】
 しかしながら十組問屋はそのまま残して置かれましたのは、幕府の上級官吏(上官)は下民の実情に深く通じかねられますこともあり、〔一部の商人に市場を寡占支配する利権をお与えになることが、一般の人民に与える〕その害を詳しくご存知ないためと存じます。

補注:
誅戮:罪ある者を殺すこと。杉本茂十郎は後ろ盾だった北町奉行が死ぬと、冥加金の不正運用(問屋仲間から集めた金を、米相場の投機に流用していた)を理由に処断されたが、失脚後の消息は不明で、一説には紀州藩に匿われて余生を送ったという。だが、息軒は処刑されたと理解していたらしい。

余論:息軒による「株仲間」制度批判の導入。
 杉本茂十郎は江戸時代の実業家で、上方から江戸へ入る「下り物」の海運輸送の独占権を、年間1万両の上納金によって幕府から獲得し、江戸における「下り物」の独占販売を目論んだ。
 彼は、現代ならさしづめAmazon創業者ジェフ・ペゾス(や楽天創業者三木谷浩史)に近い人物だろうと思う。つまり良い新商品を開発するとか、製造コストを下げて安くするとか、そういう「モノ作り」の部分に一々知恵を絞るのではなく、製造者と消費者をつなぐ流通部分を独占することだけに注力し、それによって市場支配を目論むという発想において。

 同じことはGoogle(や昔のyahoo)にも言え、Googleは面白いコンテンツを自ら作るのではなく、面白いコンテンツをアップしているサイトを紹介することに注力し、それによって情報市場の独占支配を成し遂げた。それはTwitterもFacebookも、そしてこのnoteというサービスも同じことで、自分たちでコンテンツは作らず、コンテンツを作っているヒトをユーザーに紹介することで、収益を得ている。ネット企業の多くが、虚業と呼ばれる所以である。(人材派遣会社も、つまるところは同じだ。)
 現在、AmazonやGoogleの力がこれ以上拡大することを危惧する声が上がり、EUなどではGoogleに独禁法違反で罰金を課したり、国際社会が協力してFAGAに何がしかの規制を加えるべきだという意見が上がっている。見様によっては、息軒が一部流通業者による市場の寡占支配を危険視していることと相通じる。


27-02 漢の世も聚斂の臣之れ有り、「榷酤の法」を相ひ創(はじ)め、天下の財を上に聚め、海內困窮いたし、殆ど大亂を釀(かも)し候ふ事御座候ふ。
 榷は獨木橋に御座候ふ。獨木橋の上に立ち候へば餘人は通行相ひ叶はず、右の筋に準じ、公一人の手にて、賣買の榷を執り、下民の商賈、行はれざる樣に致し候ふを、「榷酤の法」と申し候ふ。
 十組問屋は、一人には御座無く候へ共、其の組十に限り、此の外の者へ產物仕送り候へば、右組中の者、難澁を申し立て候ふ故、產物此の者共の自由に相ひ成り、貴賤心の儘に取り計らひ申し候ふ故、即ち「榷酤」と同理に御座候ふ。

意訳:中国の漢代にも〔桑弘羊(前152-前80)という〕重税を取り立てて人民を苦しめる臣下(聚斂の臣)がおり、〔武帝期の前98年に酒類を国家の専売とする〕「榷酤法」を制定して、中国全土(天下)の富(財)を政府(上)にかき集め、国内(海內)の人々は困窮いたし、〔武帝の死後、前81年、昭帝の御前で後世「塩鉄会議」と称される会議が開催され、全国から集まった知識人と桑弘羊の間で塩・鉄・酒の専売制の撤廃・存続をめぐって大論争が繰り広げられるなど、〕ほとんど大乱の雰囲気となりました事がございました。〔結局、会議によって酒の専売制だけは撤廃され、その翌年、桑弘羊は燕王劉旦の謀反に連座して処刑されました。〕
 〔榷酤法の〕「榷」とは丸木橋(獨木橋)でございます。丸木橋(獨木橋)の上に誰かが立ちますと他の人は通行できません。右のやり方(筋)に準じ、政府(公)一人の手で〔物品の〕売買の専売権(榷)を占めて、下民の商人には売買が行えない様にいたしますのを、「榷酤法」と申します。

 十組問屋は、一人ではございませんけれども、その〔株仲間に加盟する〕問屋十軒に限って〔上方から江戸へ発送される「下り物」の海上輸送を請け負えるものとし〕、〔もし誰かが〕この他の業者へ物産を送り〔江戸までの輸送を依頼し〕ますと、右の十組問屋の者が〔幕府の威光をちらつかせながら〕あれこれと面倒なこと(難澁)を申し立てますので〔、みなが十組問屋にしか輸送を依頼しなくなり、上方-江戸間の海運市場は彼らの独占するところなった結果、江戸へ入る〕物産は全てこの者どもの自由となり、価格の高い安い(貴賤)もこの者どもが心のままに取り決め申し上げますので、つまりは漢朝の「榷酤の法」と同じ道理でございます。

補注:「賣買の榷を執り」の訳し方が釈然としない。待考。

余論:漢朝の塩・鉄・酒の専売制度は、武帝の時代に桑弘羊(前152-前80)によって制定され、この功績により桑弘羊は三公の一つである御史大夫に昇進した。
 いったい塩と鉄は人々の生活に不可欠な物資であるが、産地が限られるため、不足する地域が出てくるし、そうした地域では価格が高騰する。そこで、桑弘羊は、政府が塩と鉄の製造・流通・販売を担い、全国くまなく流通させ(均輸法)、かつ全国一律の公定価格で提供する(平準法)制度を考案した。政府による経済介入である。
 この制度により、沿岸部の人民は鉄を安く買え、内陸部の人民は塩を安く買え、そして政府には莫大な売上収入が入るというWin-Winの政策だった。割をくったのは、それまで塩と鉄を手掛けていた商人たちであった。

 が、酒類は全国どこでも作れる上、生活必需品でもない。これを政府の専売制にすることに道義的な理由はあるのか、政府が介入する必要性は何か、単なる民業圧迫ではないかという批判が起こった。それで武帝の死後、昭帝の代に入ってから、昭帝主催で後世「塩鉄会議」と称される経済シンポジウムが開催され、全国から長安に集まった知識人と桑弘羊の間で塩・鉄・酒の専売制の撤廃・存続をめぐって大論争が繰り広げられた。
 結果、酒の専売制だけは撤廃されることになった。そして、この会議の翌年、桑弘羊は燕王劉旦の謀反に連座して処刑された。
 この時の論争を記録したのが《塩鉄論》であり、現代にも伝わっている。ざっくりいえば、儒家陣営は専売制に反対、法家陣営は賛成の立場をとっていた。息軒が、政府による専売制や株仲間の公認による寡占支配に否定的なのは、儒家の思想的遺伝子とでも言うべきかもしれない。


27-03 誠に其の一端を擧げ申すべく候ふ。安政乙卯大風の節、深川材木問屋、取りあへず、早駕籠にて、秩父へ參り、荷主材木切り出し候ふ事、差し留め候ふ由、差し當たり材木入り用候ふ故、切り出し候へば、其の者共幷びに諸人の爲にも相ひ成り候ふ處、材木拂底に致し、直段引き上げ高利を貪り候ふ心得に候ふ故、右體の不法相ひ企て申し候ふ。
 若(も)し問屋共の辭相ひ用ひず强ひて伐り出し候へば、以後材木相ひ送り候ふ節、請け込み申さず、他へ相談致し候ひても、御定め之れある問屋の外、請け込む者之れ無く候ふ故、餘儀無く其辭を相ひ守り、諸人の差し支へと相ひ成り候ふ。
 其の外諸產物、何れも右の手段にて、或ひは深く藏し、或ひは運船を支へ、種々の惡行數ふるに暇あらず候ふ。是れ全く賣買の權を十組へ御與へに成られ候ふより起こり申し候ふ。

意訳:実際に、その一例をお挙げいたしましょう。安政2年乙卯(1855)の台風の時、深川の材木問屋が、すぐさま早駕籠で秩父(埼玉県)へ参り、荷主〔である木こりたちが〕が材木を切り出しますのを差し留めましたとのことで、〔台風によって多くの家屋が倒壊し、再建のために〕差し当たり材木が必要になりますので、〔あらかじめ〕伐り出しておきましたら、〔木こりである〕その者たちや〔住居を失った江戸市中の〕人々のためにもなりますところ、〔この深川の材木問屋は〕材木を〔故意に〕品切れの状態にいたして、その値段を引き上げて高利を貪ります考えでおりますので、右のような不法な企てをいたしました。
 もし〔木こりが〕材木問屋どもの言葉を聞き入れず、無理に材木を伐り出しますと、以後、材木を〔江戸の材木市場へ〕出荷します時、材木問屋どもは請け負い申し上げず、他の商人に相談いたしましても、〔幕府が株仲間として〕ご公認になった問屋のほかは材木を請け負う業者はありませんので、〔生計が立てられなくなります。それで木こりたちも〕仕方なく材木問屋の言葉を守り、〔材木の出荷を差し止めました。こうして台風による材木特需と出荷制限による材木不足が重なって価格が高騰し、住処を失った多くの〕人々の支障となりました。
 その外の諸々の物産も、どれも右の手段で、あるいは売り渋り、あるいは〔他の〕輸送船を邪魔(支)し、いろいろな悪行は数え切れません。これは完全に売買の独占権を十組問屋〔を始めとする一部の商人たちへ〕へお与えになられますことより起こり申し上げます。

余論:息軒による専売制批判。
 すぐ思いつくのは、放送法と電波法だろうか。前者によってテレビ局はTV放映権の寡占的支配という利権を得ている。また後者によって、携帯三者はずっと価格カルテルを組んできた。
 まあ、それでも、i-modeとか世界最先端の情報通信技術の開発に取り組んでいたガラケー全盛期であれば、莫大な研究開発費が必要だから、携帯料金が高いことにも納得がいったが、2008年にスマホ時代が始まって以降、日本の携帯各社はアメリカや中韓で開発された技術やサービスを右から左へ流すだけになっているので、せめて料金を下げろや、とは思っていたら、2021年に政府の鶴の一声で一気に半額近くに下がってびっくりすると同時に悲しくなった。本当に、日本は情報通信技術の開発競争から降りたんだなって。


27-04 嘉永御改政の節、十組御除きに成られ候ふ事、誠に御卓見と申すべく候ふ。然る處時事一變し、又た本に復(かへ)るの姿に相ひ成り、其の後は一萬兩の冥加金も御免に相ひ成り、十組の者共、全く其の利を収め候ふ。
 漢代の「榷酤」は、軍國の入り用乏しきより、相ひ創(はじ)め候ふに付き、惡政には相違無く候へ共、此を以て國用相ひ支へ、橫税暴飲を申し付けず候ふ故、少しは申し譯も御座候ふ。只今の十組は、問屋を肥やし候ふ迄にて、官には何の御利益も之れ無く、武家百姓の難義を相ひ增し候ふ儀、誠に歎(なげ)かしき事に御座候ふ。嘉永度の如く、御取り除きに相ひ成り候はば、海內御救濟の一端に之れ有るべく候ふ。

意訳:天保之改革(嘉永御改政)の時、十組問屋〔を始めとする株仲間〕をご排除になられました事は、誠にご卓見と申し上げるべきでした。しかしながら時局が一変して〔水野忠邦(1794-1851)殿が失脚すると、十組問屋を始めとする株仲間も再興が許されて〕、また本に戻った姿になり、その後は一万両の冥加金も免除となり、十組問屋のものどもは完全にその利益を独占しています。
 漢代の酒類専売制である「榷酤」は、〔武帝期の漢朝が匈奴を相手に領土回復戦争を展開していた関係で、〕軍隊と国家(軍國)の予算が不足していた事から始めました事につき、悪政には相違ないですけれども、これによって国費を支え、その代わりに無茶苦茶な徴税(橫税暴飲)を申し付けませんでしたので、少しは言い訳もたちます。
 ですが現在(※江戸時代)の十組問屋は、問屋を肥やしますだけで、行政(官)には何のご利益も無く、武家や百姓の苦労(難義)を増やしますこと、誠に嘆かわしい事でございます。天保之改革(嘉永度)のように、株仲間をお取り除きに成りましたら、国内救済の一端となるでしょう。

余論:息軒による株仲間廃止案。
 「嘉永御改政」「嘉永度」が未詳。株仲間が廃止されたのは天保之改革で、復興が許されたのは嘉永4年(1851)である。息軒は天保年間を嘉永年間と勘違いしたのか、それとも他に株仲間に関する政策転換があったのか。

 徳川幕府は当初は楽市・楽座を実施していたが、商人の方で勝手にギルド(株仲間)を結成していた。自由主義経済では市場の寡頭支配がすすみ、現代のFAGAのように民間企業が政府以上の力を持つ危険性があるため、江戸前期の幕府は何度かこうしたギルド(株仲間)に解散命令を出した。
 だが、享保之改革では、商業を統制するためには商人が組織化されていた方が便利だという理由から、冥加金の上納を条件に株仲間を公認する方向へ方針転換し、続く田沼意次はさらに積極的に株仲間の結成を奨励した。田沼政治の反動と位置づけられている寛政之改革も、株仲間については田沼路線を踏襲した。
 そして水野忠邦が天保10年(1839)に筆頭老中となると、物価高騰の原因は株仲間による価格カルテルが原因だとして、天保12~13年(1841-1842)に株仲間解散令を出した。が、かえって全国の流通網が混乱し、さらなる物価高騰を招いた。
 水野忠邦が天保14年(1843)に失脚した後、弘化3年(1846)に阿部正弘(1819-1857)の命令で冥加金不要の問屋仲間が再興され、安政4年(1857)に再び株仲間となり、その後は明治5年(1872)に解散を命じられるまで株仲間の制度は継続した。その後、株仲間は商工組合に形を変えた。

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